2015年08月10日

8月生まれは損だった、ガクッ

私は兄が幼稚園に通うのと同時に3年保育で愛恩幼稚園に通った。カトリック系の私立幼稚園で園長の山岸先生は神父さんだった。

数日前、生まれたばかりの金魚に餌を与えていたら、急に幼稚園時代を思い出してしまった。私の記憶の中では実に50年ぶりくらいの記憶になるだろう。

それは、二種類の赤ちゃん金魚がほぼ同じ大きさだったのが、真っ黒い方は餌をどんどん食べて成長しているのに色が混ざった雑種の方は小さいままで餌もよく食べないのだ。

私は金魚に与える餌を砕いて粉にして、小さい雑種の口にも入るようにして、与えていたのだが、それでも余り食べないのだ。そこで、内心「食べなければ、食べないでいい。食べたくなったら、自然と食べるだろう」と思ったとたん、自分の幼少時代が蘇ってきたという訳だ。

私の脳裏にはっきりと女の高橋先生の顔が映っていた。小柄で片方の目が小さい高橋先生は怖かったイメージが残っている。

好き嫌いが多く、食べず嫌いだった私にその高橋先生は無理やり手弁当を残さず食べるように命令したのだ。そして、食べ終わらないと席を立たせてもらえなかったのだ。

はっきりとそのシーンを思い出した。私も強情で絶対に食べたくないと拒否したので、昼食の終わった昼休みを友達と遊ぶことができなかった。

そんな事を思い出していたら、丁度、昨日は私の誕生日で、多くの心の親友たちからバースデーメールをいただいた。そして、それと共に誕生日にまつわることも思い出してしまった。

愛恩幼稚園では、毎月、その月生まれの園児の誕生日を壁に貼り、それぞれの誕生祝いを催していた。だが、私の誕生日は8月なので、生憎夏休み。9月に幼稚園が再開してから祝っても良かろうに、そんなことはしてもらえず、飛ばされていたのである。そんな事もあり、私はずっと誕生祝いをしてもらったことが無かった。

そんな事もあり、高校2年の時、YМCAの英語研修でアメリカに行った時に丁度誕生日をスポケーンで迎えることになり、グループとホストファミリーで祝ってもらったのは初体験となった。

今年は還暦ということもあり、特別に祝うこともできたが、何しろど田舎に越してしまい、家内と娘、甥と四人の小さな、だが幸せな誕生日を迎えることができた。サッコーン!


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2015年07月30日

マイノリティー・レポートのアガサ

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  曇りと雨じゃ大違いだからね

あのトム・クルーズ主演の「マイノリティー・レポート」を覚えていらっしゃるだろうか。何故、私がその映画を持ち出したかというと、それには理由がある。

トム・クルーズ演じるジョンがアガサを抱きかかえ、真犯人を追及するのだが、特別警察に追われることに。未来を予知できるアガサは次々とジョンに指示を出し、追っての捜査を掻い潜るシーンは何度見てもぞくぞくします。

あれほど、ジャスト・タイミングでベストな場所に「居る」というのは、もの凄いことですよね。ある意味スーパー・パワー、つまり超能力と言えるでしょう。憧れますよね「超能力!」

一方で、正反対の「間違った場所と間違った時」にいつもいるのがダイ・ハードのジョン・マクレーン警部である。いつも、運が悪く「付いていない場所に付いていない時」に鉢合わせして事件に巻き込まれ、必死の思いで解決するというものです。

実は私のニック・ネーム「ラッキー」とは、これと似たような話を友人にしたところ、その友人がアメリカのホストファミリーに紹介したことで、いただいた名前なんですよ。

この友人が私のことを「ラッキー」で、彼自身、運が悪いと「アンラッキー」と呼んだことから、その家族がラッキーと呼ぶようになったのです。

何故、こんなことを書いているかというと、一昨日、パタヤを出て、バンコクのエカマイからモーチットに移動する時です。満杯になったバックパック(多分10KG以上)を背負い、ショルダーバッグにノートパソコン、象印のスポーツ水筒、それに手提げ袋といういで立ちですから雨だけは勘弁して欲しかったのです。

ところが、バスがスクミヴィット通りに入る辺り(ソイ70くらい)から、外は見る見るうちに暗くなり、エカマイのゲートウェイのしゃぶ豚でつけ麺を食べている時に豪雨となったのです。

バスの切符はモーチットへ到着してからの購入なので、それなりの時間に行かねばなりません。で、通常の自分のコースだとソイ33近くのフジスーパーで買い物をして、スカイトレインで終着駅のモーチットへ出て、そこから77番のバスでターミナルに向かう予定だったのです。

そうすると、フジスーパーへ行く所とスカイトレインの終着駅辺りで雨に降られるとえらいことになってしまう訳です。大事なパソコンがやられたら完全にアウトですから。

その時、自分の名前「ラッキー」の由来を思い出したのです。勿論、傘も持ってますし、雨合羽も持参していましたが、やはり降られない方が良いに決まっています。

すると、どうでしょう。ソイ33のフジスーパーに向かう時にはほとんど止んだ状態となり、無事辿り着けました。深夜バスの夕飯の不味さは知っていますから、やっぱり好きな弁当か何か美味しい物を持って乗り込んだ方が旅は楽しいです。

うなぎ丼と稲荷寿司を買って、再びスカイトレインでモーチットへ。

途中、豪雨で外が見えないくらいでしたが、終点のモーチット辺りまで来るとまたまた雨は小降りとなって、少し待つだけで止む状態となりました。まったく、トム・クルーズのマイノリティー・レポートを思い出したという訳です。

翌朝、田舎へ到着する前にどうやら豪雨があったようですが、私が到着する頃には止んでおりました。やっぱり、私は「ラッキー」だったのです。サッコーン!

























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2015年04月29日

スーパーマン願望

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   最初の英会話講師デ・クラークさんはベルギー人

私が子供の頃と言えば昭和30年代。敗戦後、10年程度で直後の「焼け野原」まで酷くはないが、日本が立ち直り始めていた時代である。

実家が料亭ということもあり、商売のため、自動車もテレビも扇風機もほとんどの新しい物は一般家庭よりも先に囲まれていた。

白黒テレビの時代だったが、「白馬童子」「鷹の羽」、「少年ジェット」や実写版の「鉄人28号」、少し経って「七色仮面」や「ナショナルキッド」などヒーローがたくさんいた。

特に好きだったのが、「マント」系。七色仮面もナショナルキッドもスーツの後からマントが翻り、悪党どもをやっつけるヒーローに釘付けになっていた。

料亭のでかい調理場の脇にあった四畳半にテレビが置いてあり、すぐ横に出前配達用の会津塗の弁当箱の戸棚の傍には小口の注文の弁当を包む風呂敷が箱に押し込められていた。

その風呂敷は煮魚などの汁をたっぷり吸い込んでおり、臭い嫌な匂いではないが、匂いを十分過ぎるほど発散していた。

番組を食い入るほど見ながら、終わると同時にその箱から風呂敷を取り出し、首の周りで縛り、颯爽と遊びに出掛けるのだった。

今、思い返せば、スーパーヒーロー願望はその頃芽生えていたのかも知れない。スーパーヒーローと言えば、もう一つ、大事なエレメントがある。それは「超能力」であろう。

「正義の味方」「悪漢をやっつける」「強い」などは普通の人では成し遂げられない超能力をもっている。私はいつも「超能力」に憧れを抱いていた。

そして、その願望が或る意味、英会話の習得に繋がったのだと思う。すでに高校一年の時には街に居る大概の外人(主にアメリカ人)と英語で話をしていた。
うちが料亭なので、時々、彼等を招待して昼食をご馳走してもらった。多くの人々が英会話などできない時代であるから、私にしてみると、この「英会話」ができるということは、他人から見ると「超能力」と映るだろうと思ったものだ。

今でも年配の人と接すると「○○さんは良いですね。英会話ができるから。」と返ってくることも珍しくない。少年時代の影響がこんな形で現れているのである。



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サコンナコンのお天気
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2015年04月25日

お金も時間も大事にしたい

子供の頃、両親とも共働きで中々、家庭的な暮らしはできなかった。だが、料亭を営んでいたお陰で、その従業員たち多くの人々に囲まれながら生活できた。単なる大家族どころか大が二つ三つ、付いてもおかしくない位の人数である。

料亭の裏手には大きな家庭風呂があり、四五人が同時に湯船に浸かることができた。

通常、料理を作り終えた男子従業員が先に風呂に入り、兄弟は男風呂で一緒に風呂に入ったが、休日、日曜日は女性従業員が先だった。

子供ながらにも、休日、日曜日に女性と一緒にされるのが嫌で、恥ずかしかった記憶がある。今、考えたら「そんな勿体ない」と考えることである。(笑)

トイレは男子の小便用と大便用に分かれているだけで、今の様に男性、女性の区別は無かった。つまり、女性は同じ便所をいつも利用するが、男子は小便と大便で入るトイレが違ったのである。

そんな訳で、子供の頃から「排泄」と「性」は普通の子供や現代の子供たちよりも敏感に育ったと言えよう。

生まれたのが昭和30年であるから、戦後10年、まだまだ日本が復活に頑張っている時代である。

そして、高度成長期へと移り、私も留学させてもらえた。もっとも、米国での暮らしはある意味、日本で大学へ通うよりは安かったともいえるが、ここでは触れまい。

前述した通り、共働きの両親とは、幼少時代は家族揃っての暮らしという訳にはいかなかった。特に母親とは親密になる時間はほとんど無かったと言っても良いだろう。

ただ、有難かったのは父親が子供好きで、私は特に指定の「子守り」が居なかったので、親父の後をよくくっ付いて歩いたものだ。30年代の映画もよく父親に連れていってもらった。まだ無料で入れる年齢である。

片岡千恵蔵や大友柳太郎、中村錦の助など東映の大スターの映画を見たことは今でも覚えている。千恵蔵の「多羅尾伴内」や柳太郎の「丹下左膳」なんか良かったなあ。そうそう、大川橋蔵もいたっけ。

幼少の頃は父親との会話の方が多かったが、留学後は母親とも近くなった。両親、どちらも幼少の時、時間をとってもらえなかった分、そして米国滞在が長く日本に居なかった分まで、その後の関係は「時間」を大事にするようになった。

この頃、つくづく思うが「時間とお金」と両方とも、大事にしたいものである。



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サコンナコンのお天気
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2015年02月16日

十代で影響を受けた「青春とはなんだ」

   

昭和40年に日本テレビで放送された青春ドラマの最も早いドラマであった「青春とはなんだ」に強烈な影響を受けた。

原作は都知事だったご存知石原慎太郎である。41話まであり一年以上も続いたことはまったく覚えていない。

だが、出演者であった夏木陽介や寺田濃、岡田可愛、藤山陽子、十朱久雄などほとんど全員覚えているし、役名の久保や寺田と覚えている。

このドラマが当たり、青春シリーズは竜雷太主演になり、「これが青春だ」「でっかい青春」と続いていくのであるが、やはり最初の「青春とはなんだ」の出来が一番だったように思う。

それにしても昭和40年というと私がまだ十歳であるから、丁度甥のフェッチの年頃である。

中学にはどっぷりとこの「青春学園ドラマ」に染まっており、自分の生徒時代には模範となっていた。(笑い)


   

アメリカ帰りの若者がふらっと立ち寄った田舎町で、英語教師として雇われるところから始まるのだが、古い風習を踏襲するだけの変化も進歩も無い田舎文化を野々村健介がことごとく破っていく姿に憧れたものである。

そして、少々愚連係っていた男子生徒もおませな女子生徒もそれぞれが生き生きとして生きていく姿の心底感動したものである。

私は今でもそのスピリットは持ち続けている。このド田舎へ越してきた時から、どうしたら、馬鹿げた風習を破れるか、それがテーマで生きている。サッコーン!



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サコンナコンのお天気

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2014年10月14日

弁当箱の子守唄

今日は父の誕生日であるが5年前に他界した。

私は戦後10年の生まれで、実家は戦災に遭った市内に割烹料亭をいち早く再開させた。地元の県庁前という利点もあり、手腕のある祖母と母により商売は繁盛していた。

戦後、まだまだ復興の過程であり、多くの先輩日本人がそうであったように昔の日本人はとてもよく働いたと思う。

焼け野原からの復興ということを考えると、その必死さが理解できるだろう。父母ともに料亭の仕事に携わっており、私には専属の子守りはいなかった。

いつも、一番奥の料理場で包丁を取る父の前掛けを手にして、じっとしていた記憶がある。

邪魔になったり、飽きてくると、四畳半と繋がっている8畳の部屋で弟と遊ぶのだが、この弟のちょっかいに翻弄され、制しすると泣きだし、それが原因で母からは毎晩のように押入れに閉じ込められた。親から見ると単なる兄弟喧嘩と映ったようだ。

当時は分からなかったが、弟は私にちょっかいを出すことによって、私の怒りを買い、私が手を出すと泣きだし、泣くと母がやってくる、という条件反射を実行していたのだ。つまり目的は母親の愛情だったのだ。

私は子供心にも何故、一緒に遊んでいる弟がちょっかいを出すのか必死で考えたが分からないでいた。自分の落ち度を考えていたからである。

全容を解明できたのはアメリカ留学で心理学を学んだお陰である。弟のそういう心理的事情を知らない母は「小さくて弱い弟が兄に手を出すことはない」という理論で全てを片付けていた。

弟が母の愛情(関心)を引くために起こしている行動など、毎日の忙しさに構っておられず、私がどんなに抗議しても聞き入れてはもらえず、毎晩のように「悪役」をさせられ押入れで泣き叫ぶのだった。まったくの「冤罪」である。

この頃からすでに「世の中の不条理」を思い知らされたわけだ。今となっては良い教訓だったのかも知れない。まだ、年齢にして4、5歳くらいである。

忙しい母はどんなに泣き叫んでも押入れに入れた私を忘れてしまい、暗い押入れで泣き疲れて眠ってしまった私が起こされる頃は遅い時間となっていた。

四畳半のすぐ隣が洗い場となっていて、会津塗の弁当箱を洗う音が子守唄のようだった。サッコーン!



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サコンナコンのお天気
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2014年10月10日

原理に気付いた中学生時代

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   大好きな日本の四月と学生時代の思い出

小学生6年の時にそれまで住んでいた料亭から新築した家に越した。母が偶然見つけた土地は中学、高校に近い通学路にあった。

中学生になると、家の前を大勢の学生、生徒が通学していた。私の家から通っていた中学校までは10分と係らなった。バスや自転車で通学していた同級生などよりも遥かに時間を掛けずに登校できた。

三つの小学校が合わさり一つの中学校の学区となっており、進学するとマンモス中学に戸惑ったりもした。

遊びはもっぱら男子生徒同士だったが、異性に対する関心は益々高くなっていったのもこの頃である。

時代は今のようなオープンで気さくに男女が付き合うということもなく、ましてや男女生徒が仲良いと冷やかされるような時代であった。現代の子供たちは親も開放的だし、手をつないだり平気であろうが、当時はまだまだデートなどする方が圧倒的に少数だった。

照れ屋の私は好きな女子生徒と話はしたいものの、恥ずかしい気持ちが強くあり(自意識過剰)自分から近づくのは躊躇いがあった。

そこで、一計を案じた。自宅を出る時間帯と家の前を通るお気に入りの子たちが通過する時間を意識することにした。

自宅を右に出て直線距離で500mくらいで大手門の橋があり、それを渡るとすぐ学校に着く。

私はこの直線距離を歩く間に、いろんな事を考えた。そして、出た答えは次のようなものである。それは、物事が「起こる」には「時間」と「場所」が一致しなければならない、ということだった。英語で言うと「Right Time & Right Place」である。

この原理に中学生で気付いてから、私の人生は変わることになったのだ。サッコーン!



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サコンナコンのお天気

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2010年08月07日

人生における外国人との遭遇

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    当時の小学校校舎

もうすぐ満55歳になるが、自分にとって英会話ができることは人生の選択肢の幅を広げてくれたようである。

振り返って見ると、過去において幾つかの出来事を通して、自分の個性が発揮されてきたのだと思う。

そもそも初めて「外人」を意識したのは小学生低学年の頃だったと思う。実家が料亭を営んでおり、従業員の慰安旅行で日光へ行った時だったと思う。昭和30年代、その頃、住み込みの従業員もたくさんおり、小さな子供からすると皆「叔父ちゃん、叔母ちゃん」だった。

子守をしてもらった経験からか、その叔父ちゃんや叔母ちゃんに唆され、「ほれ、○○ちゃん、あの外人さんと話しをしてごらん」とかからかわれたのだ。お調子者の次男であった私は臆することもなく「ハロー、ハロー」とそれしか知らない言葉だけで外人に近寄っていったものである。

小学生になると敷地内に朝鮮学校があり、朝鮮人の友達もたくさんいた。朴くんや柳くん、朴さんなど野球をやったりかくれんぼをしたりと仲良く遊んだ記憶がある。生徒の中には「朝鮮人、朝鮮人」とからかう連中もいたが、私には違いが判らなかった。

午後3時過ぎ、授業が終わり、一緒に運動場で野球をしていると、その朝鮮人の友達は4時から始まる朝鮮学校のため、野球を止めねばならなかった。せっかく楽しく遊んでいたのに、いつも途中で抜けねばならない彼等に対し、可哀想だと思った。

同じ日本語を話す友達だったので、国籍や国の違いなど理解できないでいた。私がはっきり違いを理解する機会がやってきたのは、小学校を卒業する直前だった。

小学校の敷地内にあった小さな校舎から新しくできた、立派な朝鮮学校に転校することになったのだ。当時、小学校6年で学級委員を務めていた私はクラスを代表して彼等とのお別れ会に代表として出席した。

ここで仲の良かった朝鮮人の友達と涙のサヨナラをすることになった。私は子供心にも何故、別れなければならないのか理解できないでいた。

同じく小学6年の遠足で羽田空港に行ったことが、その後の人生に多大だ影響を及ぼすことになった。多くの友達は「僕は大きくなったらパイロットになりたい」だの「私はスチュワーデスになるの」とか作文を書いたが、私は空港の屋上から飛行機を見ながら「あの機内に入ってしまえば、こっちのもの。その飛行機が着けば日本とまったく違う外国へ到着できるんだなあ〜」などと空想の世界に浸っていた。

その頃から海外へ出たいという希望が芽生え初めてたのだ。そして、それは僅か四年後に実現することになる。

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    40年以上前にこんな風に英会話練習を

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posted by ラッキー at 12:51| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 少年時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月11日

食べ物の「好き嫌いが激しい」とは・・・・

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    今では大好きな何でも入った幕の内弁当も昔は・・・

幼少の頃から子守りが毎日日替わりで代わる不安定な環境にあったせいか、甘えられる人も近くのおらず、精神的には非常に不安定な暮らしだったと思う。

離乳食を教える人もおらず、家において食生活も「卵と海苔」という生活だった。4人兄弟だったが、他の兄弟も似たようなものだった。

そこに登場したのが日清のチキンラーメンだった。あの「お湯を掛け、待つこと3分」である。家と言っても小学校の6年になるまでは料亭の調理場の脇の四畳半で暮していたので、そこが食事の場所だった。

最初はお湯を掛けるだけで食べていたが、その内鍋で煮てもらうようになった。小学校の高学年になるまでは、このご飯に卵、海苔、あるいは即席麺がだいたいのメニューだった。

家が料亭とは言っても料亭の料理は子供が好みそうなディスプレイはしていない。大人になればそれは嬉しいだろうが、子供にとっては敬遠したくなるものが多かった。

小学生5、6年の時に兄弟にとって革新的新メニューが登場した。餃子である。親爺の親友がやっていた中華屋で餃子を始めたと持ち帰りにして持って帰ったのだ。それ以来、兄弟全員が餃子のファンになった。

この餃子の取り合いに嫌気が差し、家族では親爺しか食べなかった鰻に注目したのが私である。少し食べてみるとあの甘い味が美味い。最初は皮が嫌な感じがしたのだが、タレの美味さにガブリ。それ以来鰻のファンになってしまった。

母親を初め親爺以外では誰も食べない鰻だったので競争相手はゼロ。二串買ってくると必ずそれは父と私が食べた。親爺が旅行とかで留守だと二串とも私が食べられた。

子供の頃から「お前は好き嫌いが激しい」とよく言われたものだが、実は「食べず嫌い」という方が当たっている。人間の舌は味を覚えていくので教育されないと慣れないのだ。

この偏食に劣等感を持ち、このままでは駄目だという危機感が後の海外留学に繋がっていったのである。

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2009年12月12日

鑑賞回数12回の「小さな恋のメロディー」

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    自室の壁に貼ったポスター

丁度、YMCAの語学研修旅行から帰国すると付き合っていたキャロリンがカナダへ帰国した後だった。まだ、高校生と中学生だった二人だったが、私にとってそれはショックだった。

丁度、その時見たのがこの映画だった。色白のマーク・レスターに悪ガキ、ジャック・ワイルド、可愛いトレーシー・ハイドの三人の友情と愛情を描いた映画である。

ビージーズのBGMも大ヒットしたので、ご記憶の方も多いと思うが、一番最後に流れるトロッコで駆け落ちするシーンに流れるCSN&Yのティーチ・ユア・チルドレンも最高に素敵だった。

元々、アメリカよりイギリスに興味があった私だったので、夢中でこの映画を見に行った。丁度、アメリカの語学研修の後だったので、ヒアリングも少し自信をつけていた。もっとも発音がかなり違うので字幕に頼る部分が多かったのは仕方なかった。

地元の映画館で夏休みが終わるまでに4度も同じ映画を見に行ってしまった。映画の中の子供たちの世界に自分を映し出していたのだ。

映画にのめり込むだけでなく主演のトレーシーも気に入り、ファンレターまで書いたくらいだ。返事を期待していたが、勿論彼女が私に返事を書くわけも無く、無しのつぶて。がっかりしたが、自分のペンパルに手紙をじゃんじゃん書いていた。

その後、アメリカに渡り、短大に行っている時、この映画の上映会が大学であった。勿論、私は友達を誘い見に行った。何度も上映したので、その度に見た。そのくらいお気に入りの映画だった。

それからすでに40年近くになろうか。DVDも購入したので、何と12回は見ていることになる。

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2009年12月11日

高校時代の英語の成績は「2」

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    先輩の友人と知らずに交際を始めたキャロリン

私は中学から高校にかけて自分のカリキュラムで英語の勉強をしていた。中学時代に英語の先生に「何故、日本人は8年(中学3年、高校3年、大学一般教養で2年)も英語を習っても英会話ができないのか正したことがあった。

当時の長洲という女性の先生曰く「文部省の要綱に沿って勉強すれば、できるようになるのです。」という答えに呆れて職員室から出てきた覚えがある。

そこで、自分で英会話の学校に通うことにした。学校で出る宿題など何もしなかった。だいたい、和訳が中心だった当時の授業内容は全くつまらないもので、興味が湧かなかった。

英会話を中心に世界中に友達を作ろうとペンパルと文通を楽しんでいた。最初の文通相手はなんとフィリピン、ミンダナオの学生でテシー・サムソンと言った。テシーを手始めに、フィンランド、ポーランド、スウェーデン、英国と手当たり次第に文通相手を増やしていった。小遣いの半分は切手代に消えていたくらいである。

高校2年の時、参加したYMCAの英会話研修旅行でシアトル郊外のワード家とスポケーンのバートン家にホームステイしたことは度々書いてきたが、このワード家から留学生としてアメリカの高校に転校しないかという打診があった。

両親は東大の教授を旦那に持つ友人に電話で相談したり、中学の恩師に相談したりといろいろ考えたようだった。

ある時、この留学話を聞いた先生から職員室に呼び出された。何を言われるのかと思ったら、この教師は私に留学するのを諦めるようにとアドバイスしたのだ。理由を聞くと私の英語の成績だった。

5段階評価の下から二番目、「2」が私の通知表に書かれた数字だった。そこで、私は自分の自論を先生に披露した。

「日本で行われている英語教育のシステム、つまり和訳を中心とする作業は英会話には向いていない。英語は英語のまま、理解すべきで、私の成績は立派に留学するために通用する成績である」
先生は渋々、私の自論を認めざるをえなかった。その後は何も言わなくなった。そんな会話を聞いていた別の先生たちはおおいに結構と賛成してくれた。

和訳の翻訳などで当時の成績が決まっていたのだから、評価とは一体何なのだろう、と学校の英語の成績など相手にもしなかった。

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2009年12月03日

思わず「ハムレット」に「Oh, シェークスピア!」

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    飛行機の中は英会話の練習に最適だった

高校2年の夏、YMCAの語学研修でアメリカに行った時のことである。初めて乗る飛行機は羽田を夜出て最初の訪問地ハワイに向っていた。

空が明るくなり始め、窓の外を見ると雲の上に太陽が昇り始めた。朝日が窓から差し込むようになると朝食の時間になった。

メニューはよく覚えていないが、ハム・オムレツと何かのチョイスだったと思う。ハム・オムレットと言うかオムレツWithハムと言おうか考えているとスチュワードが丁度やってきた。

「What would you like to have ?」と聞かれて、とっさに私が答えた。「ハムレット!」

すると、スチュワードは笑いながら「Oh、シェークスピア」と答えた。まだ高校生ではあったがヒアリングはまずまずできたので、彼の答えには参ってしまった。二人で大笑いになった。

僅か、4週間の研修ではあったが、飛行機の移動は10回にも及んだ。私は自分で英語の練習をしたくて引率の先生にこっそり頼みごとをした。それは、移動の飛行機の座席をなるべくグループの端にしてもらうことだった。

生徒8人のグループだったが、中に入ってしまうと両隣とも日本人の生徒になってしまう。それでは英語の練習にならない。幸い、引率の先生が気を遣って端の席にしてくれたため、お陰で隣に座ったアメリカ人と英会話の練習が十分にできた。


「ありがとう、でも結構です」を英語で言うと、Thank you, but no・・・・。



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2009年12月02日

憧れのマッターホルン

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    まだ行ったことのない少年時代からの憧れ

幼少の頃から家にいるのが嫌だった。珍しい子供だった。温かみが無かったからである。と、言うか実家が料亭で大勢の人(従業員や来客)がいて、家庭の雰囲気が無かったからである。

私の興味は「海外」だった。小学生の頃から「兼高かおるの世界の旅」という番組が大好きで、あのような暮らしができたら最高だと決めていた。

小学6年の時に両親が料亭とは別に家を作ったので引っ越した。二階には男兄弟三人の部屋があり三段ベッドだった。

私は一番上だったので壁や天井に大好きなポスターを貼ったりしていたが、ポスターの多くは何時か行ってみたい世界の有名な観光地だった。

特に気に入っていたのはスイスのマッターホルン、インドのタジマハール、それとアメリカ・カナダに跨るナイアガラフォールズだった。

お陰さまでその内、タジマハールとナイアガラはすでに行くことができた。だが、20歳でヨーロッパまで出かけながら途中、アルプスの山の中でこき使われ飯もろくに食えず挫折してしまいマッターホルンは文字通り「待ったー」状態である。

その後、行ってみたい所は増えたが、グランドキャニオンを初め、エジプトのピラミッドとそれなりに体験できた。

50前に失職して、タイに越してきた身分だが、死ぬまでにはバチカンのシスチーナ礼拝堂とイスラエルの嘆きの壁には一度行ってみたいと思っている。

それから、一度行っているが、もう一度、再度行ってみたい所を聞かれれば文句なしに「沖縄」と「エジプト」を挙げるだろう。

沖縄には特別の風が吹いていた。目に入る景色、口に入る味、耳に入る音、肌で感じる文化の香り、すべて特別な感情を抱いていた。ぜひ、もう一度行ってみたいと思う。

それから、エジプトは人類文化の長い歴史を感じさせてくれる特別な場所だ。食事はあまり好きな方ではないが、それでももう一度、あのピラミッドを見てみたい。それなりに歴史を読んでは行ったが、今度はもっとゆっくり博物館も巡りたいと思う。

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2009年12月01日

氷の妖精ジャネット・リンに会う

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    銅メダルに輝いた氷の妖精ジャネット・リン

1972年、札幌オリンピックの話題と言えば、フィギュアスケートのジャネット・リンだろう。演技中に転んでお尻からすってんころりん。そこで、自分のミスににこっと笑顔で答えたのが評判になった。

銅メダルに終わったジャネットが日本中の人気者となったわけだが、私は二位に入ったカナダのカレン・マグヌッセンが好きだった。可愛らしさと美人が同居したような、大好きなタイプだった。

取り立てて好きではなかったが、そのジャネット・リンがどういう訳か私の地元のデパートにやって来ることになった。オリンピックの直後のことである。

ジャネットが来ると言うニュースを聞いた私も早速出掛けた。確か、土曜日の午後だったと思う。当時は今のような週休二日ではなく土曜日の午前は授業があった。

学校の帰りに目的のデパートに行くと、早めに着いたがすでに多くのファンがデパートの前に集まっていた。

私はメインストリートのデパートの入り口からジャネットが来るような気がしなかった。そこで、想像力を発揮し、ジャネットの到着は裏口だろうと読んだ。

大勢のファンを後に、私はデパートの正面玄関を周りこみ裏口へ急いだ。すると、そこへ丁度ジャネットが到着した。超ラッキー!!

読みどおりだった。裏口付近には誰もおらず、私は高校の制服のまま、遠慮せずジャネットに近寄っていった。入賞おめでとうと祝いの言葉を掛けるとジャネットは笑顔で答えてくれた。

この頃から、私のこういう判断力が増していった。すべては、正しい場所と正しい時間、即ち『Right time and right place』によって物事が起こるのである。

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2009年03月04日

自分の意思で通い続けた英会話スクール

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    オーストラリアからの留学生パティ

母の薦めで通った小学校時代の書道は約4年、初段か二段までは取ったと記憶している。しかし、三日坊主で辞めたそろばん塾。やはり自分が出来なかったり、知らない他人が多いところは苦手だった私だが、英会話だけは違った。

中学3年生の最年少で入った英会話スクールだけは、休み休みしながらも継続していた。それには自分の心にはっきりした動機が存在したことと無縁ではない。

はっきり言って中学時代から英語は好きな科目ではなかった。というより、一番関心が高たったのだが、先生の教え方がつまらず嫌いになっていた。

しかし、外国へ行きたい、海外でブロンドの可愛い子と話がしたい。出来たら付き合いたい、との思いが強くそれが動機としてずっと心にあった。

思い出せば子供時分にテレビで見た白黒放送の少年ケニアにケイトというブロンドの少女に恋をしていた頃から外人に憧れていた。

兎に角、そのような思いが続いていたのか、習い事、途中休んだりもしたが、続けて通っていた。私にしては大快挙である。

私は英語がやりたかったのではない。英会話をマスターしたかったのである。スクールにはラボもあり、流れてくるテープを聴きながらリピートするという練習室もあったが、最初から「人と会話」がしたいとラボは敬遠していた。

だが、ある時、仕方なしにラボに入り練習していると、何故そのラボが大切かに気が付いた。要するに自分の物になるまで反復練習を繰り返すためだった。理屈が分かると俄然集中することができた。

高校時代になると街中で出会う外人という外人に声を掛けていた。2年になる頃にはほとんどの滞在中の外人は知り合いだった。家が料亭だったこともあり、その外人たちを招待し日本料理をご馳走してもらい会話の練習したことはたびたびあった。

私が英会話が得意で外人の友達が多くいるのは高校の先生の中でも評判だった。ある時、私が好きではない先生から声を掛けられた。廊下を歩いているとき、その先生に呼び止められた。「おい、○○、お前、外人の友達が多いと聞いたが、誰か私の息子に英会話の個人教授できる人いないか?」

生意気だった私は好きではない先生からの頼みに「考えておきましょう」と言い残し、その場を去った。好きで尊敬している先生なら二つ返事でOKしたけれど。好き嫌いがはっきりしている所はすでに外人(アメリカ人)ぽかった私である。

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2009年03月03日

最初の英会話の先生はベルギー人

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    英会話の先生はベルギー人だった

中学3年生になったばかり、5月のある日、親友の狩野を誘い英会話の学校訪ねた。今でいう「英会話NOVA」の走りである。実は小学校の時に茨城大学教育学部から来た教育実習の先生が地元では(多分)一番早く外人の先生による英会話学校をオープンさせたのだ。

私はその年の正月、高畠先生からいただいた年賀状でその旨を聞いていた。そして、小雨の日だった、小学校でも同じクラスだった狩野を誘って先生にご挨拶を兼ね学校を見に行ったのだった。

その時私はすでに別の塾に通ってはいた。英語専門の塾だったが内容は教科書の説明と訳が中心で英会話は一切無かった。それで飽き飽きしていた。要するにこの塾は受験に対する塾で、当時は英会話は受験とは無縁だった。当たり前である、だいたい学校の先生すら英会話ができなかったのであるから。

私と狩野が英会話学校を訪ねると高畠先生は驚いた。小学校の教え子が本当に来るとは思わなかったのであろう。まだ、14歳だったのだから自分の意思で来た子は恐らく二人だけだったと思う。

高畠先生は小柄できりっとした美人で可愛らしかったが厳しい先生だった。先生の説明で生徒はほとんどが高校生以上とのことだった。中には日立製作所の会社員もいた。出張のために英会話の特訓に来ていたようだ。

畳に小さなテーブル(卓袱台)の塾とは違い、椅子とテーブルの教室が二つとオーディオが入ったラボがあるこの学校が好きになった。親善訪問が終わりビルを出た時には、私はすでに決意していた。この学校に入ろう。

家に帰り、思案した。どうやって両親に切り出そうかと。そして、一番忙しい時間を見計らい、母に聞いた。「今度、教生の先生がオープンした学校(英会話)に通いたいんだけど・・・」

忙しさに禄に話も聞かず母をOKした。習い事には多分、反対しないだろうという私の読みは当たった。早速、高畠先生の英会話学校の門を叩いた。

だが、先生が言っていた通り、中学3年生の私は最年少でたった一人だった。それで、最初は日本人の先生が付いてしまった。がーん。これでは目的が違う、じゃ、どうする。

最初の一週間で結論を出した。高畠先生に直訴したのだ。「先生、最年少でも構いません。是非、上の人たちと同じ英会話のクラスへ入れてください。」快くOKしてくれたので、隣の英会話コースへ転じた。そこには外人の先生がいた。だが、彼は英国人ではなくベルギー人だった。

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2009年03月02日

帰宅すると監獄が待っている毎日だった

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    通っていた三の丸小学校の運動場

四人兄弟の次男として生まれた私は一つ年上の年子の兄と一歳離れた妹とその下の弟がいた。両親が商売(料亭)をしていたこともあり、兄は生まれると祖父の経営する旅館の方へ預けられた。初孫であるから、それは可愛がられた。

私の妹は料亭に裏にあった塩専売公社の老管理人夫婦が面倒みた。妹は料亭の方にいたが夜になると裏の管理人夫婦のところで寝た。私は兄と一緒に幼稚園に通い、終わると帰宅し兄と遊んでいたが、夕方になると消防所勤務(所長)を終えた祖父さんが旅館に連れ帰っていた。

料亭に残るのは私と弟だ。私と弟は仲が悪かった。いつも喧嘩が絶えなかった。実はそう思っていたことが事実でないと理解できたのは、その後成長してアメリカ留学時代にセミナーを受けたお陰である。それについては後述することになると思うが、この時にはそういう関係だった。

いったい何が起こっていたのだろう。子供であるから弟と私は結構二人で遊んでいたのだ。だが、何か些細なことがあると必ず弟が泣き出すのだ。すると、その泣き声を聞いた母が飛んできて「この忙しい時に何で弟を泣かすのか?」と叱責するのである。私はどんなに事情を説明しようとしても無駄だった。忙しい商売に追われている母には「聞く耳」はなかった。反論すると「△×■」と逆に言い訳するずるい子だと押入れに閉じ込められた。

真っ暗な押入れに閉じ込められ、怖さで(暗いのと中から出られないのではないかという恐怖)泣き喚きながら「出してくれ」と懇願しても料亭の厨房のうるさで私の声が届くことはなかった。

毎晩、毎晩、弟のチョッカイを受け、止めろと抗議すると泣き出し、その度に押入れに閉じ込められる毎日だった。

物心が付き、外で遊べるようになった小学生時代は毎日、外で友達と野球をして遊んだ。夕方、真っ暗くなるまで野球をした。授業が終わるとすぐに運動場に飛び出し場所を確保した。ところが、家が遠い友達は4時、5時となると一人、一人と抜けていく。最後は近所の子供たちだけ残るのだが、皆家に帰らなければならない。

家が監獄状態だった私はどんなに暗くなっても帰ろうとしない。最後までグランドに残っていた。それほど帰りたくない家だった。

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2009年03月01日

愛恩幼稚園−山岸園長のお話

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    三年保育で通った愛恩幼稚園

私は3歳の時に一つ年上の兄が幼稚園に入園するときに一緒に幼稚園に入れられた。両親とも商売が忙しかったせいもあり、年子ということでの決断だったらしい。普通は二年保育だったので私は一年早くスタートしたことになる。

愛恩幼稚園はカトリック系の幼稚園だったので日曜学校があり、ミサとかやっていた。今でも幾つか幼稚園の思い出は残っているが、山岸園長の訓示で覚えていることがある。

内容は忘れてしまったが、「誰も知らない、見ていないと思っていると、とんでもないことです。神様はどこにでもおられ、あなたのすることはすぐ頭の後ろからすべて見ているのです。」といったようなお話をなされた。

私は真剣に聞いていたので、「頭のすぐ後ろ」と言われて、キョロキョロ後ろを振り返った記憶がある。どんなに急いで振り返っても自分の頭の後ろは見ることはできない。何度も何度も繰り返し頭の後ろをみようともがいていた。そして、神様の存在とはそういうものだと子供ながら理解した。

その数年後、市内に住むおばあさんの店(料亭)に遊びに行った。私の兄弟4人と従兄弟二人で近所のお寺の境内に来る紙芝居を見に行った。途中に駄菓子屋があり、いつもここに寄ってはオヤツを買っていた。

ある時、その駄菓子屋の棚に100円玉を見つけた。当時、もらう小遣いはその程度だったので、驚いてしまった。黙って取ったら泥棒になってしまう。皆に言ったら分け前が減ってしまう。何しろ6人もいるのだ。そのままにしておくのはもったいない。

一人で心臓がバクバクするのを必死に抑えながら考えた。あまり長くそこに留まっても居られない。じゃ、どうする?

そうか、誰にも見つからなければよいのか。そう、思い静かにそっとその100円玉の上に手を置いた。そしてハラハラしながらその100円玉を握りしめた。

「しめた。上手くいった。」握った100円玉をポケットに仕舞い込みその場を離れた。事が上手く運んだので嬉しくってしょうがなかったが、皆に言うわけにはいかない。左手をポケットに何度も入れてはその100玉を握り締め、確認した。

ところが、その時山岸園長の声が聞こえてきた。「神様はどこにでもおられ、あなたのすることはすぐ頭の後ろからすべて見ているのです。」

「ああ、自分は何としたことをしてしまったんだろう。」すでにやってしまったのだ。誰にも離せずこの日からしばらくの間、罪悪感に浸る毎日を過ごした。

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2009年02月20日

大阪万博エキスポ‘70が残してくれたもの

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    エキスポ70、大阪万博

1970年、当時中学3年生であった私は一つ上の兄と夏休みに甲子園での高校野球と大阪での万博に出かけることになっていた。一級上の兄はすでに県内のトップ進学校水戸一校に合格し「この世の春」を満喫していた。

一方、私はと言えば相変わらず受験勉強など鼻から考えてもおらず中学2年の「中だるみ」をそのまま引きずり成績も下降したままだった。どっちみち昔から夏休みに勉強などしたことがない。「休み」は「休み」と割り切る性分で、立派に休みを取るつもりでいた。

兄の計画したこの旅行は魅力的だった。ところが夏休み直前にどういう訳かこの計画が私の学年主任にばれてしまった。職員室に呼ばれ「来年、受験だというのに何を考えているのか」と怒鳴られ、臆病にもこの旅行をキャンセルせざるを得なくなってしまった。

失望した兄は私の代わりに同級の木村先輩を誘い、二人でこの旅行に出かけた。戻った兄から見せられた数々の写真にはイタリア女性と一緒に写った写真など私を羨ましがらせるナイスショットにショックを受けた。

それは8月も下旬、夏休みも終わろうとしていた頃だ。私は自己嫌悪に陥った。相変わらず例年通り宿題は溜まったままだった。最初から「休み」で勉強などやる気がないのである。それなら兄と一緒に神戸、大阪と旅行した方がなるかに「勉強」になったではないか。後悔しても後悔しても「過ぎ去った時間」は戻ってはこなかった。

丁度中学3年生で修学旅行があり、大阪万博へは行くことができたが、その意味はまったく違う。兄と二人で自由に回ることに「意義」があるのであり、中学生の団体旅行の比ではない。

この時の「大失態」が残した「自己嫌悪」と「反省」がその後のアメリカ留学などへのきっかけとなった。「やらないで後悔する人生」よりも「やって失敗する人生」を選ぼうと決めたのはこの時である。

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posted by ラッキー at 00:57| バンコク ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 少年時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月08日

パンナムと兼高かおるの世界の旅

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中学時代だったと思うがシアトルに留学する前の話である。毎週日曜日、TBSで放送されていた「兼高かおるの世界の旅」を見るのが好きだった。世界旅行はその頃から憧れだったが、旅行よりも海外に住みたいというのが究極の夢だった。

パンアメリカン航空のロゴが付いた飛行機が画面に映り、映画「八十日間世界一周」のサウンドトラックのメインテーマ曲が流れると身震いするほど興奮しながら見たものだった。

兼高かおるさんは自分で企画した海外旅行のアイデアに大手企業がスポンサーになり夢を実現しただけでなく、多くの日本人に「世界」を紹介した功績とその影響は多大なものがあったと思う。

小学生の遠足で羽田空港に行った時、初めて飛行機を見た。6年生の同級生は「えー、あんな大きな鉄の塊が空を飛ぶの??」とか「わたしは大きくなったらスチュワーデスになりたい!」とかそのような感想を漏らす児童が多かったが私は違うことを思っていた。

「ふ〜ん。あれに乗り込みさえすれば、兼高かおるのテレビ番組で見るような違う世界へ行けるのか!」「すげえや、たった数時間で全く違う世界に飛び込めるのだ!」飛行機との出会いはまさに私にとって「タイムマシン」の出現だった。

そして、このような海外思考に影響を与えたものにもう一つクレージーキャッツの映画があった。確か映画の題名は「クレージーの黄金大作戦」だったと思うが、植木等演じるサラリーマンがアメリカ出張を任命されるはずだった他の社員に成り代わり自分が出張してしまう。出発前にラスベガスのカジノのチップを1枚アメリカ人から手に入れると下町の工場でそっくりなコピーを作らせるのである。

ところがロスアンジェルスからラスベガスへの途中、ネバダの砂漠で迷子になってしまう。やっとのことで丘を登ると眼下にネオンに輝くラスベガスが出現するのである。日本から持参したコピーのチップを元手に大儲けをするという話だ。

同じ映画を見た山戸くんと松崎くんと三人で「大きくなったらラスベガスへ行く隊」を結成したくらいだ。一番早くそれを実現したのは私であることは言うまでもない。

1972年、7月25日、私はパンアメリカンの飛行機に乗っていた。そう、夢が叶ったのだ。憧れの兼高かおるさんがいつも旅する同じパンアムに乗っていたのだ。
このように過去を振り返ると、今何故自分がここにいるか、足跡をたどることができる。
思わず遠くへ来たものだ。まだまだ私の旅は途中である。

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    空の旅はパンアメリカンから

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posted by ラッキー at 10:20| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 少年時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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