2015年09月12日

恐怖体験!那珂川の堤防決壊

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  ホテル経営時代に氾濫にあった那珂川

関東地方と東北地方に今回の集中豪雨で、だいぶ被害が発生している様子。被災者の皆さまに心からのお見舞い申し上げます。尚、一日も早き現場復旧を願う次第でございます。

私もホテル経営時代に、確か平成7、8年の頃だったと思うが、やはり台風による大雨で、ホテルが床下浸水の被害にあったことがあります。

那珂川からは距離にして2km以上も離れている場所に建つ我がホテルが川の氾濫で水浸しになるとは誰が想像できたでしょうか。

その前日、雨は降っていましたが、約束があったので、飲みに出掛けたのです。夕方、その那珂川の橋を歩いて渡っていきましたので、川を様子を覗うことができました。橋の渡り切ったすぐの場所に水位を示す柱が立っており、見ると余裕で大丈夫そうに見えました。

飲み屋から帰宅する時はタクシーだったと思いますが、よく覚えてはいません。ホテルに戻り、自室に入ると酔いつぶれて寝てしまいました。

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  まさか、この田んぼが全部水に浸かるほどの被害になるとは・・・・

翌朝、まだ暗い午前4時くらいだったでしょうか。突然、ヘリコプターの音で起こされました。半分酔っている二日酔い状態です。よたよたしながら起き出して、ドアを開けました。すると、拡声器を使った声で非難を呼び掛けていたのです。

周りは次第に明るくなっていきました。「何だ、何も無いじゃないか!」と、その時はそう思いました。外に出て、町内の角まで出ると村人たちが集まっていました。話を聞くと皆上流の情報を話し合っていました。

まさか、これが大洪水の始まりとは、この時点では分かりませんでした。(続く)














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2015年08月15日

スーツケースもゴルフバッグも

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昨日はシンガポールークアラルンプール間で起こったスーツケースのミスハンドリングをお伝えしました。今日は、アメリカで起こった荷物事故の話です。

それはパームスプリングからラスベガスでのフライトで起こりました。同じように、ベガス空港に到着し、荷物が出てくるカーセルに行ったのですが、我々のスーツケースとゴルフバッグが出て来ないのです。

100人も乗れないくらいの小さな飛行機でしたので、満席ということもあり、わざと荷物を後回しにした可能性も否定できませんでした。何故っていうと、実はパームスプリングの空港でちょっとしたエピソードがあったのです。

私と親友Jはラ・キンタでプレイした後、空港乗り捨てで借りていたレンタカーを返し、チェックインしました。出発を待つ小さなラウンジは混雑していました。そろそろボーディングだという時間にアナウンスが入ってのです。英語のヒアリングがそれほどでもないJ君は分かりませんでしたが、私は分かりました。

それはオーバーブッキング(アメリカでは常識)で、全員乗せられないので、次の便に周ることのできるお客を募っていたのです。その航空会社の名前は忘れてしまいましたが、一年間有効の往復のチケットと一人50ドルくらいだったでしょうか、を無償で提供するようなことでした。

我々はそんな物もらっても、アメリカに住んでいる訳ではないので意味はありません。様子を見ているとある年配のユダヤ人夫婦がボランティアで後続の便に変更を申し出ました。夫婦の会話を聞いていたら、お婆さんの方が爺さんに「良かったね、これで100ドル浮いたわよ。カジノで遊べるじゃない」って喜んでいました。

さて、満席の小型ジェットはベガスまで一時間くらいだったでしょうか。到着の荷物が無いので、私はJ君に言いました。「こんな所で次の便を待つのはもったいないから、先にホテルに行こう。荷物は航空会社に届けされるよ。」

勿論、英語が達者でなければ、このやり方も大変でしょうが、私は米国在留9年ですので、お茶の子サイサイ。それでタクシーでシーザース・パレスへ向かいました。

ところが意外な問題が出てきました。空港でもどこでも、相対する人間が相手なら良いのですが、チェックインしたホテルの部屋から航空会社に電話をすると、全部、録音によるアナウンス案内なのです。

当時からアメリカでは首切りをして人件費カット、できる限り機械に仕事をさせるようにしていたのです。サービス業で、ですよ。考えられませんでした。

問い合わせの電話をすると流れて来る案内を最後まで聞かないとなりません。少なくとも自分が必要な番号の案内が出てくるまでは、黙って聞いていないといけないのです。電話に出て用件を話す、伝えるということが、すぐにはできないのです。

ホテルから航空会社に数回電話したので、待たされた時間だけ無駄な電話代になりましたね。この部分だけ、今でも誤算だったと思ってます。





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2015年08月14日

ショートフライトで荷物積み残し

過去の話で恐縮であるが、ある意味、今でも通じる話だと思うので、少々、ご辛抱いただきたい。これは実際に私が体験したことなのであるが、ショートフライトに於ける荷物の積み残しってのが、結構あるのです。

一度はシンガポール―クアラルンプール間のフライトでした。こちらの一時間弱くらいのフライトで、我々が乗ったシンガポールからスーツケースとゴルフバッグ。クアラルンプール空港で、ラゲッジカーセルで待っていると、荷物が出てきません。そして、すぐに英語でアナウンスが入ったのです。

「次の便で到着しますので、そのままお待ちください」。私はこういう場合、航空会社で幾つかのサービスがあるのを知っていたので、一時間強も荷物を待っている時間がもったいないと判断。そして、親友に私たちのオプションを伝えたのです。

勿論、そのまま、カーセル(荷物受け取り場所)で待つ。第二のオプションは航空会社に掛け合って、食事かドリンクのサービスをコーヒーショップ或はレストランで受け、そこで荷物を待つ。

そして、私が勧めたのは、この「第三の選択」でした。それは、先にホテルに行ってしまい、空港会社には荷物をホテルまで届けさせるというものでした。こうすれば、せっかく、二日しか滞在しないゲンティン・ハイランドでカジノとゴルフを楽しめるのです。

ショートフライトでこのような事が起こるのは珍しいことでも無いのです。何故なら、近距離ですが、域内で結構本数があるからです。そういう意味では安穏としている空気が漂っています。

ですから、私は自分たちの滞在時間の方を大事にして、できる限り、航空会社にはその責任でこちらの希望を叶えてもらいます。これが上手な交渉術です。次回、ラスベガス編に続きます。


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2015年08月06日

先輩の生まれ変わりか?

今日はパタヤの親友デル・ボーイの誕生日である。パーキンソン病と闘いながら、今日で無事69回目の誕生日を家族で祝っている。今朝早くバースデーメールを送っておいた。

そして、英国から息子のケビンが奥さんと子供を連れてデルを訪ねてきた。昨日到着したので、誕生日を一緒に祝おうという計らいなのであろう。実にめでたいことである。

私は父親のデルとも親しいが、息子のケビンとも親しくなった。実はデルも多くの英国人のように離婚しており、娘さんとは相性が悪いらしく疎遠であり、英国に帰省した折も実家のある村に住んでいるにも関わらず娘は父親のデルに会おうともしない。人間関係とは複雑である。

そして、複雑であり奇妙なことと言えば、私には可愛がってくれた大好きな先輩がいた。過去形なのは彼が自ら命を絶ってしまったからだ。元々、彼は兄と同級生で私は高校時代から知っていた。それが不思議な縁で米国留学から戻り、諸般の事情で実家の会社を引き継ぎ、ホテル経営をするようになってから再会した。

べブル景気は破裂していたが、バブルの余韻が残っている時代、つまり失われた10年と呼ばれる頃の話である。父親の商売を継いだ先輩は酒屋を経営しており、兎に角、個性豊かな人であった。ゴルフに行けば、原色のど派手な色のシャツにズボン。

車はスピットファイアー。やること為すこと、本当に派手でどこでも目立つ先輩だった。90年代後半の頃、たまたま飲み屋で先輩と一緒になり、兄の話や商売の話になり、意気投合して、ご一緒する機会を持つようになった。

先輩の友人たちは定時で終わる職業の方が多く、飲み会となっても始まる時間が早かった。先輩は酒屋なので8時過ぎくらいまでは店を閉める訳にはいかず、参加できるのは遅くの時間になってしまう。私と息が合ったのはそんな関係かも知れない。

午後9時過ぎるくらいの時間が二人共、出掛けるのに都合の良い時間だったので、この「二人会」はユニークな飲み会だった。そして、そんな中で彼の誕生日が8月6日だと知った。広島原爆の日であり、9日生まれで長崎原爆記念日の私と不思議な縁を感じたものである。実の弟のように可愛がってくれた先輩だったが、実家をマンションに造り直し、テナント経営にするプロジェクトに失敗して、それを苦に他界されてしまった。

生きていれば、兄と同じ61歳を今日迎えているはずだった。その先輩と同じ日が誕生日のデル・ボーイが先輩の生まれ変わりのような(そういうことは有り得ないのは承知なのだが)不思議な縁を感じてしまう。

ハッピー・バースデー、ご両人。そして、先輩にはご冥福を祈る次第である。











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2015年07月13日

宝くじ3回当てた人物

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    同じ買うなら東京の宝くじ売り場の方がチャンスありと思うのだ

バブル崩壊後の失われた10年(実際は20年とも言う)は、すでにオープンしていたモーテルの経営に追われていた時代である。

抵当証券なる金融商品が銀行から提案され、その条件での貸し付けは先に行けば行くほど返済額が膨れ上がるバルーン(風船)と呼ばれる返済計画であった。

そんな事もあり、将来的な憂鬱さは約束された事態だったので、いつも「宝くじ」には関心があった。本来なら返済は商売の売り上げからなされるべきものである。そんな事は百も承知である。しかしながら、借金の金額(三億円)と返済スケジュールを見る限り、30年の返済は最初から見込みは無かったというべきであろう。

だが、それほどまで世の中はバブルで狂っていたのである。まあ、そんな時代背景の中で、私はよく世話になっている親友の不動産屋に出入りしていた。

そこで、出会ったA氏のお話である。まあ、話半分として聞いていただきたい。(もっとも、そういう話の仕方の方が信憑性があるのだが)。

私はその昔、ツアコン時代によく事務所のある茅場町から銀座まで出向き、わざわざ西銀座チャンスセンターで宝くじを購入していたのである。昔からこの西銀座チャンスセンターでは高額当選者を数多く出しており、すでに当時から超有名であった。

私は関東のローカル都市出身で、なるほど県内でも高額当選者は数えるほどである。つまり、どこで買おうと当選者が出ていないのである。そこへいくと、どれだけ多くの人を集めようとも、毎回、十数人という高額当選者がこの西銀座チャンスセンターから輩出されていたのである。

私の考えは、同じ宝くじを買うなら、県内で買うより、少し出費と時間が係っても此処西銀座チャンスセンターで買う方がチャンスがあるという考えでいた。何といっても実際にその売り場から当選者が出ているのである。

その時代から付き合いのある親友とはグループ買いなどもしたことがあり、西銀座チャンスセンターへ購入に出向く時は、彼の分も頼まれて購入したこともあった。

ある時、不動産屋の事務所で偶然A氏と一緒になった。お茶を飲みながら世間話に興じていたのだが、話題はジャンボ宝くじになった。私と親友はこの話題で盛り上がっていたが、
A氏は驚くほど冷静で静かに聞いているだけだった。

そして、しばらくしてA氏は事務所を後にした。A氏が帰った後、親友は「実はね、Aさん、ジャンボを当てているんだよ。」口止めされているので、「今の話、彼に直接しないでね」と念を押された。

しかし、その半年後、親友はA氏を前にして自分から大当たりを購入した件を話すことになった。何故ならそのA氏は一年の内、宝くじの高額当選を三度も果たしていたのだ。

私は話題が解禁になったのをきっかけにAさんにそれまで聞きたかった事を直接ぶつけてみた。

すると、「やはり」と思う答えが返ってきた。それは、ある程度まとまった金額の予算で、私と同じように東京まで購入に出掛けるというものであった。うーん、妙に納得している自分がいた。




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2010年09月07日

初めて訪れた金沢の街

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今から8年前、平成14年の大河ドラマで「利家とまつ」をやっていた。平成に入り、バブルが弾け景気は悪かったが、今から考えるとそれでも現在よりはまだマシだったと言えよう。

金沢城も再建されたということを聞き、一気に行ってみたくなったのだ。城巡りは大好きな私は親友のK君に話を持ちかけた。当時、彼もNTTの宿舎の経営をしており、中々休みは取れなかったが、ちょうど夏休みの忙しい時期を終えた9月に入ってのことだったので、一泊二日の強行軍で行くことになった。私にとっては始めての金沢訪問であった。

私の目的は金沢城の一点だけ。残りは何でも良かった。K君は最初は黙っていたが、実は大学時代の朋友が金沢出で、仲間に会いたいのだが・・・と打診したので快諾した。

香林坊で会うことになった。仕事帰りに香林坊の居酒屋で一杯やる約束を取り付けたK君と日中は金沢城を満喫した。素晴らしいお城の再建に嬉しくなった。こういう事業に税金が使われるのは満足である。公共事業のモデルのような再建である。

北関東の出身の私には初めて訪れた金沢で二つのことを体感した。ひとつは北関東と北陸の距離である。地図を見ると分かることだが、中間には日本一高い富士山があり、群馬、山梨と中央アルプスが遮る。

正反対の場所にある訳であり、それを越えようとすると三つのルートに分かれることになる。ひとつは山を飛行機で飛び越えるコース。もう一つは山の中腹を超えて、即ち、群馬から長野へ入り富山の方から周るコース。最後の三つ目が栃木から新潟の方に出てから南下するコースとなろう。

私たちは二番目のコースで行くことになった。越後湯沢まで新幹線、そして北陸本線に乗り換え金沢まで向かった。9月というがまだ残暑が厳しかったのを覚えている。

二つ目は金沢と京都の関係である。北関東と北陸の遠さを実感したことはすでに書いた。それに比較すると都であった京都の方がはるかに近いと感じた。幾ら交通網がいまほど発達していなかったにせよ、関西の方が関東よりはるかに便利だったのはないだろうか。小京都と言われる所以でもあるだろう。

道中、K君とはいろんな話ができた。普段、仲が良いと言ってもじっくり話をする機会はそうはあるものではない。金沢の親友二人がいたからこそ大学を卒業できたとK君は笑いながら話した。
偶然だとはいえ、5日はちょうどK君の誕生日でもあった。金沢の街で親友と級友とが集い、彼の誕生日を祝う祝杯を上げたことは言う間でもない。素晴らしい旅になった。

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2010年08月12日

ハプニング連続のホテル経営

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14年間という間、ファッションホテルを経営したが、その間、本当にいろいろな出来事があった。

開店直後、いきなりヤクザの親分と会計トラブルがあったことはすでに記した。やっちゃんも来たがウッチャン(右翼)も来た。

きちんと役所の指導も受け、許可をいただいているのにどうのこうの言ってきた。許可に関しては設計事務所の方に聞いてくださいと答えることで対応したが、その設計事務所は役所に聞いてくれと応対したので、ウッチャンはその三者を周るしかなかった。

従業員もいろんな人が来た。応募の面接は年間100人以上はしただろうか。中には仕事よりもお金が目的のような人も来た。そんな人にはうちから近い、駅ビルの方へ行くように言った。そこには数多くのサラ金があったからだ。

うちは二股OK、昼間、通勤している人でもアルバイトでどんどん採用した。何しろ開店当時はまだバブルが弾けた直後で、日本中が踊っていた時代だった。正規採用の正社員などとても集まるどころではなかったし、後で証明されることだが、人件費の面からもバイトスタッフで経営したことは経費の面からも賢いやり方だった。

私は本当に従業員にも恵まれたが、何人かのとんでもない人も来ちゃったことがある。一番困ったのはホテルフロントでもルーム清掃でも同じだが、やっと二週間の研修を終えて、これから頑張ってもらおうという時に続かず辞められたことだ。

教えるのは倍以上のエネルギーが必要なのはやったことがある人でないと分からない。二週間、しっかり教えて業務を飲み込んだと思った矢先に辞められるのは精神的にもいただけない。

愉快だった出来事の中でいつまでも覚えていることがある。うちに来る前の勤務が病院の会計だった子をフロントに雇ったことである。つい、昔の癖が出てしまい、会計を済ませたお客に「お大事に」と言って帰してしたのだ。

お客で愉快だったのは私がフロントに入っている時のこと、客室から電話が鳴ったので出た。ファッションホテルなので、通常80%の電話はチェックアウトの連絡である。残り20%がルームサービスのオーダーだったり、当時は貸しビデオなどであった。

ところが、この男性客はもごもごしながら「電池はありませんか?」と聞いてきたのだ。部屋にはすべて揃っているし、電池が必要なモノはほとんど無い。まさか、懐中電灯ではあるまい。

不思議に思い、「どのようなバッテリーですか?何にお使いですか?」と聞くと、しばらく無言の後、切ってしまった。直後に気が付いたが、どうやら大人の玩具のバッテリーが切れたようだった。

休憩二時間を想定し、太い配管を風呂場に設置したため、とんでもない水の事故も数多く経験した。何しろ、豪華にしようとストッパーを設けなかったのがいけなかった。湯船にどっぷりつかり、たっぷり入ったお湯が零れ落ちる、なるほどアイデア的には豪華である。

ところが、お湯を出したカップルが部屋でタバコを一服している間にもうお湯が溜まってしまうのだ。そして、後で判ることだが、風呂から勢いよく零れ出したお湯が風呂椅子に乗った風呂桶を押し倒し、排水溝を塞いでしまうのだった。行き場を失ったお湯が風呂場から浴室にあぶれ出し、そのまま部屋の出口に漏れ出すこととなる。その大量の水が三階から二階、二階から一階へと落ちてくるのだ。この問題は閉店するまでずっと続いた。最後の方は慣れたもので驚かなくなってしまった。

14年間を通して、一番強い思いは、従業員に大きな事故や怪我が無かったことである。そして、一生懸命にやってくれたスタッフには本当に心から感謝している。


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2010年08月01日

懐かしいフィリピン・パブと彼女たちの棲家

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前回、帰国した折、いつものように墓参りに行った。帰りにバスを使わず、歩いて戻る途中、目に入った古い住宅があった。

昔の記憶が戻ってきた。この住宅の二階に多くのフィリピン・パブのタレントが住んでいたのだ。

「デート」と称した同伴で、よく迎えに行ったことがあった。チケット制のフィリピン・パブの営業システムは実によくできていた。ユダヤ人がよく使うお金を別の形に替える手法は錬金術として古くから使われている。

他の店はおろか、その店でしか通用しない「チケット」に現金を替え、それで注文する仕組みである。チケットが残って使われなければ店の得。使いたければ客は再度足を運ばなければならない。単純だが実によく出来た仕組みである。

それにしてもタレントビザ発給が制限されてしまい、フィリピン・パブは絶滅の危機にあると聞く。90年代から2000年代初期、本当に楽しい夢のような世界であった。

毎日の暮しに壁壁している人にとってはPパブは憩いの一時が過ごせる安らぎの場であったことは間違いない。

通っているうちに、同指名の客と仲良くなったり、カラオケのリクエストをもらったりといろんな出来事が思い出される。


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2010年07月24日

サイパン行きの機内で出会った千佳ちゃん

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私はガイド時代、お客と個人的なお付き合いはしないと決めていた。自分の仕事に対するけじめとポリシーである。

しかし、ガイド職を離れ、個人的なツアーは別だった。別に何の下心も無かったがサイパン便の中で千佳ちゃんと知り合った。

行きの便だったので、サイパン滞在中にお互いに会う約束ができた。超ラッキー。元サイパンで日本語教師をしていた時、世話になった大家のリック&メリーが自家用車を貸してくれたので、従兄弟と二人で島内のいろんな場所に行った。

前日プレイしたコーラル・オーシャンGCがきれいなので写真撮影に一緒に出掛けたりして仲良くなった。

日本に帰国してからも連絡し合い、翌月には私の地元に千佳ちゃんが会いに来ることになった。

せっかくなので、ドライブしながら日立市にあるかみね公園まで足を伸ばした。動物園と遊園地がある小さな公園である。

千佳ちゃんと歩いていると観覧車が目に留まった。人影はまばらで観覧車には誰も乗っていなかった。それだけではない。何と係員までいなかった。

私と千佳ちゃんは係員のいない観覧車の扉を勝手に開けて乗ってしまった。ゆっくり上昇する観覧車の中で雑談している時、ふとある考えが頭を過ぎった。

「待てよ、中には上手く入れたけど、開ける時はどうすんだ?」

観覧車はてっぺんを過ぎた所だった。頂点を過ぎると降りてくるのは早く感じる。あっと言う間に下まで降りてきてしまったが、中から扉は開けることができない。

ドアを開けられぬまま、ゴンドラは再び上昇してしまった。怖がる千佳ちゃんを前に、私が焦ってはみっともない。平静を装いながら、どうするべきか、考えた。
再びゴンドラは頂点を過ぎて下降し始めていた。観覧車から下を見ても人影は誰もいない。恐ろしいほど人がいない公園だった。

すると、下の方まで降りてきたら二人の中年カップルが歩いているのが見えた。私は大声でその二人に声を掛けて、扉を開けるよう懇願した。何を騒いでいるのだろうと、駆けつけてくれた二人にドアを開けてもらいやっと解放された。

その後の千佳ちゃんとの関係は続かなかった。


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2010年07月02日

最後の狂宴=フィリピン・クラブ

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ホテル経営に終止符を打ち、次のゴール設定がまだ決まらぬ頃である。仲の良かった取引業者のUさんがやってきた。

彼とは仕事以外でも音楽や女性の趣味など相性がとてもよく、二人にとってフィリピン・クラブは憩いの場であった。

入国ビザの関係でどんどんフィリピンパブが姿を消したいた。U氏も私も消えゆくフィリピンパブに苛立ちを覚えていた。

そんな中、地元のあるビルにPパブの看板を見つけたので入ってみた。料金とシステムがリーズナブルで気に入ったが、少ないホステスだったが器量もよく、在日ではなくフィリピンからやってきたタレントが出ていた。

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そこで知り合った子の妹が入れ替わりでやってきた。最後の宴とばかりにU氏と私は盛り上がった。冗談のつもりでカメラを出すと、かなり助平なモデルをやってのけるのだった。こちらはまさかと思いながら大笑いしていると、隣の客も真似を始めた。

ブラジャーまで剥き出しにして、スカートを持ち上げパンチラする姿は愉快で堪らなかった。やはり、フィリピン人女性の大らかさと開放的な性格はホステスに向いていると言えよう。

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2010年06月29日

初めてのメイド喫茶

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秋葉にメイド喫茶が登場した頃の話である。当時、まだホテルを経営した私のところに正月明け、S先輩から電話が掛かってきた。東京で買い物があるので付き合えというのである。

正月明けで仕事も書き入れ時を終え、スタッフも揃っているので時間的余裕もあったので承諾した。

S先輩は神田にある店の常連で皮の冬物特売によく行っていた。昼前に買い物を済ませた私たちは秋葉近くにいたので、話題ができたばかりのメイド喫茶になった。せっかく近くにいるのだから立ち寄ることにした。

S先輩も私も共に独身で、遊びは大好きだった。テレビでも案内されたという店は簡単には見つからなかった。秋葉の電気街をうろうろしたが、さっぱり分からない。そこで、S先輩が私に言った。「誰か呼び込みをしている兄ちゃんに聞いてみろよ」。

「この近くにメイド喫茶はありませんか?」すると、店先に立っていた呼び込みの兄さんは後ろを向かず指だけ指して「そこだよ」と言うではないか。驚いたことにメイド喫茶のすぐ近くにいたのである。

すぐさま、階段を上り店に入る。正午前だったので店は空いていた。真ん中のテーブルにS先輩と座ると周りを見渡した。三人ほどの「オタク」が座って漫画本を読んでいた。

そこへメイド姿の店員がやってきて注文を取った。ランチセットを二つ頼み、S先輩と顔を見合わせてしまった。何も起こらないからである。

すると、下から次の客が入ってきた。メイドが「お帰りなさい」と客を出迎える。客が帰るときにはその反対、「行ってらっしゃいませ、ご主人様」

な・る・ほ・ど。気がつくと店は満席になっていた。S先輩と私は出てきた「出来合い」のハンバーグをパクついていると下から団体客が入ってきた。仲間の一人が水先案内人のようだ。連れの友達に詳しくメイド喫茶を案内していた。

そして、我々の食事は終わってしまった。会計を済ませ店を出ることにした。「行ってらっしゃいませ」に送られ外に出た。二人の心境は「不完全燃焼」だった。仕方がないので、その後、韓国マッサージに出かけた。
posted by ラッキー at 00:26| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | ホテル経営者時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月27日

ワールド・カップとコンドーム

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    私と智愛のワールドカップ

ニュースによると韓国ではW杯観戦後、コンドームの消費量が伸びているそうである。この記事を読んで2002年W杯を思い出さずにはいられない。当時、私は智愛(チエ)という韓国人女性と付き合っていた。

日本語も知らずに来日した智愛の最初の指名同伴が私であった。しかし、仕事は別として最初から相性が良かったのだろう。でなければ、四年近くも付き合うことは無かったはずである。

出会いは彼女が27歳の時である。私は40代でバイアグラを飲みだした頃である。別に無くてもできたが、回数をこなそうと思うと助っ人が必要だった。彼女は絶品だった。美しい白い肌に形のよく整った乳房、すべてが美形であった。

その頃には同伴でなくても、クラブが終わると迎えにいき、そのままホテルに直行した。二回戦、三回戦と駒を進めることも多くなっていった。特に、韓国が勝つと智愛は上機嫌で、私を受け入れてくれた。「テーハミング!」チャ・チャッチャ・チャッ・チャ!

なるほど、韓国の強さの秘密はこれかも知れないと思った。ガイド時代から知っているが、韓国人女性のセックスはタフである。二人のベッドはいつも強化試合で延長戦はざらだった!
posted by ラッキー at 10:55| バンコク ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ホテル経営者時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月25日

幾つになっても自分の好みは変わらない

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20代後半からアジアを中心に案内するアメリカ人専門のツアーコンダクターになり、各国を周ったが、仕事がオフになると友人たちを連れ、個人でもよく遊びに出掛けた。もちろん、私の案内である。

韓国、タイを始め、遊ぶ場所は香港、マカオ、台湾、シンガポールの穴場まで含められた。私はあてがわれるのは好みではなく、同じ世話をされるにしても自分の好みを選べるスタイルが好きだった。選択権のない、「ハイ、こちらをどうぞ!」というのは好まない。

そういう点でも多くのアジアンカントリーは非常にエンターテイメント性の高い、正に男のパラダイスだった訳である。

先日、昔の写真が出てきたので整理するつもりでデジタル処理してCDに焼き付けた。保存版ともいうやつである。

その整理をしていると、かつて旅行したときの写真など多数が含まれており久しぶりに見る機会があった。台湾四人旅、バンコク・パタヤ、殺人フルコース、など私が勝手に命名したいろんなツアーの写真が出てきた。

当然ながら、一緒に夜を共にしたお姉ちゃんたちの写真もあった。そして、愉快なことに気がついた。他の人は知らないが、自分で選ぶ女性のタイプは時間と場所は違ってもいつも同じようなタイプの女性を選んでいたということである。

そして、さらに笑ってしまったのは、ガイドの仕事を離れ、ホテル経営時代に移っても自分の選ぶ女性のタイプが似ていたことだ。ホテル経営時代に出会い、四年間付き合った智愛の写真とその十数年前にソウルで選んだ女性の写真を見たら、なるほどイメージ的に同じようなタイプを選んでいたのだなあと感心してしまった。

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posted by ラッキー at 00:10| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ホテル経営者時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月02日

ニチレイ・レディースでキャンペーンギャルのパンチラ

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I県で行われたニチレイ・レディーズ・クラシックのトーナメント観戦に出掛けた時の思い出である。従兄弟の車で出掛けることにした。

到着後、どういうわけかクラブハウスに紛れ込んでしまった。大会関係者しか入れないはずだったが、どういう風に入ったかは覚えていない。

入った場所には一般客はいない訳で、それなりに緊張していたことは覚えている。様子を伺う感じで歩いていた時だった。

二人が歩いているすぐ前をキャンペーンギャルがミニスカートで歩いていた。突然、その子が持っていた物を床に落とした。その瞬間である。

その子は膝も曲げずに柔軟な体で腰を折り曲げ拾ったのだ。真後ろにいた二人は腰を曲げる真後ろから純白のパンティーが丸見えだった。実際はスコートを履いていたのだろうが、そんなことはどうでも良かった。

こちらにしてみれば、パンティーも同様、その瞬間従兄弟と顔を見合わせ笑ってしまった。何か朝から得をした感じだった。こういう瞬間って男に生まれて良かったと思う瞬間であろう。こういう偶然なら大歓迎である。

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posted by ラッキー at 08:35| バンコク ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | ホテル経営者時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月16日

ラブホテル氷河期を予測

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    早くからラブホの氷河期を予測した

日本全国バブルに踊っている最中、両親の不動産売買問題に端を発した商売継続問題は長兄の日本料亭からの引退で新しい路線を行くことになった。

売買に伴い発生した利益を再度投資しないと多額の税金が発生してしまうため、事業資金として投資するのが望ましいと判断された。

長兄は日本料亭からは引退したものの、一時は商売を転向して別の商売を模索した時期もあったが、何も決められずに友人の兄が勤める建設会社に就職が決まった。

さて、平成2年にオープンしたモーテルであったが、バブルが弾けたとはいえまだ余力が残っていた。それはそうだろう。あれだけの狂宴だったのだから。クリスマスには20歳前後の若い男女が互いにドレスやスーツで決め込み大きなプレゼントを手に部屋に入っていくのだ。一晩に5万、10万と遣ったはずだ。

だが、それも正社員という会社の恩恵があったからである。できそこないの使い物にならない若い社員を先行投資で雇い、終身雇用で返してもらうという長い伝統の雇用形態が維持されていた最後の時代である。

半年もいれば少ないとはいえ最初のボーナスが出たのだ。その雇用形態がアメリカを模しダウンサイジングと称しパートに切り替えていった大企業が続出した。

パート化と休暇による経費削減策は私の頭を切り替えるきっかけとなった。所得が減り、時間が余るのである。

簡単なことだ。稼ぎが減り、遣う時間(休み)が増えるのである。これでは景気が悪くなるのは当然である。その後、自民党の政治は多くの国民を助けるどころが一部の大企業と金持ちが優遇される政策となっていったのは記憶に新しい。

早くからこのような社会変化を見抜いていた私はラブホテルの氷河期を予測し、どこかで自分のビジネスの行き詰まりが来ることを予感していた。

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posted by ラッキー at 10:40| バンコク | Comment(0) | TrackBack(0) | ホテル経営者時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月06日

夢のゴルフ・トーナメント主催

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    大会のマスコットガール、峰岸姉妹

ホテル経営時代の楽しかった思い出と言えば何と言ってもゴルフ・トーナメントの主催だった。経営スタイルが確率された三年目くらいだったと思う。取引業者のYホームズのKさんと話をしているうちに話題がゴルフになった。

二人ともそれまでゴルフの「ゴ」も言葉にしたことは無かったが、互いに大好きだと判り話が弾んだ。私が自分の会社主催のゴルフ・トーナメントが夢だと話すとKさんはそれなら協力を惜しまないと応援してくれた。

私は以前からマスターズ・トーナメントが大好きで、それに習った大会を主催したいと考えていた。日本でもシーズン後半、特に秋になると大きな大会が目白押しであるが、私は春に行われる最初のメジャー、マスターズが気に入っていたのでうちの大会もその頃開きたかった。

そして、マスターズ同様、オープン・コンペにはしたくなかった。あくまで主催者の招待という形に拘った。社長である私と縁のある人や業者を招待した。ブティック・ホテルの経営はお客様との接点が無い。つまり、接客による営業が限られている訳である。当然、営業の方で知人、友人が増えるわけでは無い。

そこで、私はお付き合いができる業者の方たちと個人的にも親しくなりたかった。それはある意味で自分の財産と同じであるからだ。

コンペの規模は表彰式と歓談会が行われる大きなテーブルで端から端の人の顔が互いに見え声が届く大きさとした。それは大体大きくて24人、最大8組と決まった。もっとも、実際のコンペでは6組くらいの規模が多かったが。

そして、もう一つ希望があった。それは一組に一人女性プレーヤーを入れたいということだった。あまり、競争を強調したくなかったのだ。基本的には競技会というよりは親睦を目的とした楽しいゴルフにしたかったからだ。

もう一つ、内心思っていたことがある。それは助平心を持つ男どもが、可愛い女性の前で力みOBを連発する姿を見たかったのだ。私のスコアでは優勝できる望みは薄かったからである。
案外、私の予想は当たっていた。朝から笑い声は絶えず、女性を前にして力んだ選手たちがいきなりOBスタートするのを見るのは愉快だった。

このコンペはマスターズ同様、毎回コースも決まっていた。セント・フィールズGCは距離よりも戦略重視のコース設定で中々面白いコースだった。

コンペの副賞にはKさんの協力でYホームズから、そしてS生命のTさんと合わせたくさんの協賛を得ることができた。従兄弟のU君もたくさん商品を寄付してくれた。

ショートホールでは我が社から「ラスベガス旅行」だの「ソウルの旅」だの海外旅行招待も付けたりした。

7年続いたコンペだったが、景気が悪くなり、自然消滅してしまったのが大変残念である。仲間が集まるとIPマスターズ同窓コンペを開こうということになっている。

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posted by ラッキー at 12:03| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ホテル経営者時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月24日

北京で出会った謎の女

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    北京のホテルで出会った日本語ぺらぺらの謎の女

ホテル経営者時代のことになるが、年配のスタッフ、チーフの労いも兼ね、両親や親友の両親など数名で北京旅行を計画した。足腰が弱る前に親孝行したいという思いもあった。

四日のツアーは当然、ハイライトである万里の長城や天安門など北京の有数の名所を全部周るツアーだった。

すでにガイド時代にアメリカ人客のツアコンとして中国を訪問すること60数回になる私だったが、それからはすでに何年も経っていたので中国、特に北京の変わり様に驚いた。

数日のツアーであったが、同行したN社長と一緒に家族が寝たあと、二人で散歩に出かけた。特に何が目的という訳は無かったが若い男二人、何か起こらないかな〜という不謹慎な考えが無かったとは言い切れない。

ホテルの名前は忘れてしまったが、確か宿泊先のホテルのとなりにあるホテルのロビーだったと思う。我々に近づいてくる女が二人、日本語で話しかけてきた。

胸が躍るほど嬉しくなった訳ではないが、多少緊張した。話をしてきた女性は日本語を勉強中ということだった。確かに日本語を話していた。何も触れなったが我々は以心伝心、相手の女性はいったい何者かと興味を持った。

特に二人とも我々の好みではなかったので、こちらは適当に会話をしながら、どういう風に発展するのか、相手の出方を探った。

しかし、その後適当に話をしていたが、相手の二人の中国人女性は別にこちらを誘う風もなく、単なる会話で別れることになった。当時はまだ現在のように資本主義になっていない中国では夜のお供などのビジネスには厳しかった。

こちらからそのような態度を取ることは大変リスクが伴う危ない行動だったので、我々も大人しく引き下がる態度に終始した。未だに彼女たちはいったい何者だったのかと思うことがある。

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posted by ラッキー at 00:11| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ホテル経営者時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月24日

おーい、ルイジノ、ゴルフバッグ担いでやって来いや!

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    ルイジノとメル(メルの中古楽器屋で)

我が義兄弟とロス&ベガス視察を企画した。シアトルにいたルイジノとはネットで連絡が取れていた。ルイジノはワイン会社に勤め初めてから本格的にゴルフに取り組んでいた。何しろルイジノをゴルフに誘った大元は私なのだった。110回くらいでラウンドしていたようだ。

義兄弟ジョンと渡米が近づいたとき、ルイジノに言った。「おい、ルイジノ、休みを二日、三日取ってロスに来ないか?再会できるし、一緒にゴルフもできるぜ!」ルイジノは当時ワイン販売会社で実績を残していたので休暇を取るのは訳がなかった。

LA空港のレンタカーの会社で待ち合わせしていた。丁度ジョンと私がリンカーンを借り出して出庫したところにルイジノがやってきた。運転は慣れているルイジノに任せた。何故なら行き先はビバリーヒルズで中古の楽器屋をやっている我が友、メルの店だったからだ。

リンカーンの助手席に座った私がナビゲーターだ。ルイジノはシアトルからジョンと私は日本から、誰もロスに詳しくない。私が唯一、メルの所で一週間過ごした程度だった。

ルイジノはシアトルからマリちゃんを持参していた。車に乗り込むと早速火を付け、三人で回した。さて、そのルイジノ、車を走らせ目的のビバリーヒルズへ行くはずが、あっちでもない、こっちでもないと転々としていた。

気が付くとさっきも走ったところをすでに三度も四度も走っていた。私がそう言うと、全員、今気づいたかのように大笑いした。途中、仕方無しにガソリンスタンドに立ち寄り従業員に聞くことにした。

するとアラブかどこからかの移民で英語は少ししか話せずロスのことは知らないと言われまたまた大爆笑。結局だれもロスを知らないのだ。

結局、途中、メルに電話を入れ、行き方を聞くことになった。一時間程度で着くはずの距離を費やした時間は3時間だった。しかし、それは愉快な3時間だった。

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posted by ラッキー at 00:20| バンコク ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ホテル経営者時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月18日

フロントは私の分身

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    ホテルのセカンドフロア

ホテルのマネージメントはさながら軍艦の艦長のようであった。特にフロントルームにいるとホテルその物が巨大な戦艦の雰囲気があった。そういう風に感じると自分がさながら艦長の気分というのもしっくりきた。

その艦長であるが、スタッフが全員出勤し、ホテルが機能している時は良いが、スタッフに欠勤が出たり、一ヶ月の猶予を持たせずに辞める従業員が出ると大変だった。会社の規約で入社時に「辞任届けは紙に書いて最低一ヶ月前に提出する」と説明してあったが、守らない身勝手なバイトもいた。

やはり年齢層が低くなるとその傾向は強かったが、中には年を食っていても守れないどうしよもない連中もいた。約束事をきちっと守って辞めたスタッフの中には多くの出戻りもいたのが嬉しかった。中には三度、四度と採用したスタッフもいた。

私は常々、時間を取りフロントのスタッフにはいろんな話を聞かせた。そして、自分の考えも交えながら私がどういう風に物事を捕らえ判断するかなど十分に伝える努力をした。フロントは云わば私の分身である。私が留守でいない時、何事か起こったらどういう風に私が判断するか教えておく必要があった。これはツアコン時代にユニツアーズの社長に習ったことである。

オープンから2週間程度たった頃、一人の太った女の子が面接に来た。大柄な良い体格だった。面接時にフロントとルームのどちらが希望か聞いたところ、ルーム清掃を希望したが、私はフロントで勧めてみた。彼女は自信は無いがやってみたいと承諾した。フロントもルームさんも会社でユニフォームを用意してあったが、残念ながら彼女は大きすぎてサイズが無かった。しかし、翌日出勤した彼女を見ると自分でしっかりした服装で出てきたので私は何も制服については言わなかった。

私は彼女が偉いと思ったのは採用して数日後、朝出て行くと自ら掃き掃除をしていたのである。若い子は言われかければ動かない人が多かった中で珍しく自分で行動する子だと高く評価した。

糖尿病を患い、付き合っていた男性と事情でホテルを辞めるまで7年間、彼女はうちのホテルでは業者にも有名になるくらい評判が良かった。その彼女が勤めて一週間目に以前に書いた「やっちゃん事件」が起こったのである。この時の体験が彼女にとって「何が起きても怖くない」と言わせるほど彼女を成長させた。事実、その後は何が起きても動じないで事の処理に当たってくれた。

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posted by ラッキー at 01:36| バンコク | Comment(0) | TrackBack(0) | ホテル経営者時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月17日

苦肉の策 − オール・パートタイマー

    09 feb 17  パタヤ 経営者.JPG
    ホテルフロント

ホテルの営業時間は24時間、365日である。つまり、商売には「休日」休みが無いのである。ある意味、商売上はこんな最高な商売はない。お客があればいつでも稼げる訳である。

バブル最盛期にオープンし、時勢も手伝いビジネスは上手く軌道に乗ったが、従業員には苦労した。何しろ「給料は多く、休みも多く」というご時世である。正社員は元よりパートタイムでも集めるのに苦労した時代であった。

そこで私が考えたのが苦肉の策、オール・パートタイムである。先ずは肝心のホテルフロント。ここは現金も扱うし接客もある。しかし、お金のトラブルを防ぐ意味と無駄な固定費を出さないためにもフロントスタッフは一名とした。それを「「駅伝」のように一日4シフトで4人で賄うのだ。

先ずは日勤から区切りをつけた。朝8時に出勤し、午後4時まで。それから午後4時から午後9時まで。午後9時のスタッフは深夜2時まで入り、午前2時の深夜勤務と交代する。こうすることによって、日中のフロントがしっかりすれば、その時間私は別の業務に当たることができた。

午後9時から午前2時の一番忙しい時間帯もアルバイトをし易い時間帯で募集には苦労しなかった。予想できたことだが深夜午前2時から8時の時間帯と午後4時から午後9時の時間帯が募集では苦労した。

一週間7日を二人のフロントで3日と4日で採用するのだ。そして何かの用事で休む場合はこの同じ時間帯のスタッフで交代することを規約と定めた。こうすることにより、いちいち私がスタッフの休みの手配をしなくても済むように約束事を決めたのだ。

働きたいと募集に来る人が「休み」で云々することが不思議で仕方なかった私は自分のポリシーを持っていた。そんなに休みたいのなら最初から来なければよいのだ。理屈は非常に単純である。仕事をして稼ぎたいから応募するのであって「休みながら稼ぐ」ことはできないのである。

だいいち「心臓」は死ぬまで「休み」がないではないか。これが私のモットーであった。用事があり休むのは本人の勝手、どうぞご自由にお休みください。その代わり責任を持って交代の人をあてがう、これが会社の方針だと採用時に説明していた。

全員、オール・パートタイマーでいくわけであるから、この規則は非常に重要な役割を果たした。

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posted by ラッキー at 00:39| バンコク ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ホテル経営者時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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