2008年08月29日

初めてのヌードビーチ☆

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    チャカナットビーチはヌードビーチで有名

学生寮のルームメイトだったクレイの横恋慕うでアイリーンとの関係に終止符が打たれて寮を出た。幸いブルースが小さな家を借りていて、小さな部屋を私に貸してくれた。

ブルースもアイリーンと友達だったので、時々アイリーンに会う機会はあった。彼女がバレンタインに私に贈ってくれた「I want you to be my Valentine」という言葉と最後に聞いた「I’m out of love」という二つの言葉が頭から離れなかった。

まだ心の傷が癒えない私だったのでアイリーンに会う嬉しさと彼女が私の元を去った寂しさが心の中で同居している頃だった。

突然、アイリーンが遊びにやってきた。別れた後、私の様子が心配なようだった。ブルースは私とアイリーンの関係は知っていた。彼の提案でチャカナットビーチへ行こうということになった。

チャカナットは大学のあるベーリングハムから南へ車で20分ほどの所にある小さなビーチだった。ヌードビーチで有名と聞いてはいたが行ったことはなかった。

ビールを1ダース買い込み私の運転で出発した。車を崖の上に停め、急勾配の坂(ほとんど崖に近い)を下りる。ビーチに着くと本当に本格的ヌードビーチだった。

全員、真っ裸である。ブルースが着ているものを脱ぎとる。アイリーンもハルタートップを脱ぎきれいなバストを出した。そしてホットパンツも脱ぎ取るとビーチシートに寝転んだ。

私も遅ればせながら衣服を全部脱いだ。何でもやってみるべきである。頭の中で何が起こるのだろうと色々想像していたのが馬鹿だった。エッチなことは何も無い。つまり、そのような下品な考えが誰も持っていないからヌードビーチなのである。

エッチに興味ある人はここへは足を踏み越えないでいた。誰もキョロキョロ見る人はいない。子供連れの家族もいるので小さな子たちはその辺を走り回っていた。

ふと崖の上を見るとエッチな考えの男たちが数人見えた。だが彼等は私たちに見つかると居た堪れなくなって消えていた。大空の下で何も身に着けずに真っ裸で日光浴。これは風呂に入る感覚ともまた違う、「人は無から生まれ無で死んでいく」という哲学的体験ができた。

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    ちょっと恥ずかしいのか中にはトップレスも


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posted by ラッキー at 16:33| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月28日

社会学で飯が食えるか?

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    オーカス島へ行くフェリー

ワシントン大学からウェスタンワシントン大学に移ったのは正解だったが、専攻学部では困った。自分の好きな学問である社会学を専攻していたが、将来の就職のことを考えると不安になった。

社会学専攻で飯が食えるか?という問題である。修士号を取得して先生になろうとは思わなかった。考えた挙句、新設のレジャー学部へ変更した。これなら社会学よりまだ就職先が見つかりそうだと考えてのことだ。

仲の良い友達に話すとジョーク好きなアメリカ人たちは「レジャー学??それなら勉強しなくても(パーティーで)毎日レジャーしてるだろう。」と笑われた。それはそれでその通りだったので私も一緒に笑ったが、新しい学部だけあって三人の若い教授が授業を指揮していた。

歴史がないので教授たちも手探りでカリキュラムをこなしていたようだ。約30名の学生はそれぞれ何らかの将来のビジョンを持っていた。国立公園のフォレスト・レンジャーを目指す者や老人の施設で老人たちのレクレーションの指導を目指す者とか具体的な目的を持っている学生は多かった。

ところが私はそういう職業的目標を持っていなかった。個人的に言えば究極の目的がアメリカに移住することだったのだ。卒業後その夢を自ら絶ってしまった訳だが、その時は「学生ビザ」の身分では「将来帰国」という壁があってアメリカ移住との板ばさみで考えがまとまらなかった。当時はまだ日本のアメリカ進出は現在のようなものではなかった。

私が時代の先を走り過ぎていたのだ。結果論から言うとアメリカに残っていれば何でもできたはずであるし、日系企業でも現地採用されたと思うが、今になっては全て「たら、れば」の話である。

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    三人の若い教授たち

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posted by ラッキー at 17:13| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月12日

ルイジノの穴

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    あまり見たくない人も△×○??

どういう訳かアメリカ人は穴を出すのが好きである。アメリカの青春映画にもよく出てくるお馴染みのシーンである。

英語が達者な人ならすぐに分かると思うが、これは「Kiss my ass」という意味である。怒ったり頭に来た時に発する言葉であるが、それを行動で示すと文字通り「Kiss my ass」となるのである。

よく高校時代にサッカーの試合に行く途中か帰りに対抗校とバスがすれ違うときなどバスの最後部に座った生徒が全員で穴を出し、パンツを下ろし「Kiss my ass」とやったもんである。

楽しかった青春のひとコマである。

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    歳はとってもまだ心は青春真っ盛り

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日本の明日を危惧する人は是非一読をお勧めします。

植草一秀の『知られざる真実』
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posted by ラッキー at 13:19| バンコク ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月06日

アメリカで初めてゴルフをする

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    様になってきたルイジノのアドレス

ショーライン・コミュニティー・カレッジでゴルフのクラスを取った経験はあったが、「動かない球」を打つ難しさから18歳の時にはそれほどゴルフには関心が無かった。

数年後、ウェスタン・ワシントン大学で再開したルイジノと初ラウンドに出かけることになるとは誰も予測できなかっただろう。

3月末に卒業に必要な単位を全て取得した私は6月の大学卒業式に出るため4月以降の3学期は休校していた。

春、4月のマスターズをテレビで見ていて、その素晴らしさを実感していた。

そして、その数日後ルイジノが遊びにやってきた。彼はアラスカでの鮭漁から戻ったばかりで休みだった。

春うらら。天気も良いので「ルイジノ、ゴルフに行かないか?」と誘ってみた。
「お前、やったことあるのか?」
「別に無いよ!」
「できるのか?」
「問題ないだろう」

ということでクラブもボールも仕度一切無しで近所のゴルフ場に出かけた。道々、ルイジノが用意したマリちゃんと一緒である。

クラブハウスに着いて、中へ入る。スタッフが同じことを聞いてきた。
「ゴルフの経験は?」
「経験が無いと無理かい?」
「野球はやったことがあるかい?」
ルイジノはイタリア人でベースボールとは縁が無かったが私は子供時分草野球と一緒に育ったことを言うと「それなら問題ないだろう」とレンタルクラブを貸してくれた。

もちろんキャディーなどいない。ルイジノと二人、クラブを担いでコースに出た。

ティー・ショットの前にマリちゃんをもう一服。気分良く「ナイスショット!」と行きたかったが、二人とも「ちょろ」。笑いながら前に進む。

ルイジノの第二打。「ドスン」という地響きが鳴る。ルイジノの豪快なショットだった。だが、二人とも球の行方が掴めないでいた。

「どっちへ行った?」「見えなかった!」凄いショットだと二人ともびっくりした。だが、ボールの飛び出しは全く見えなかった。ボールを捜しに行きたくても方角さえも分からないのだ。

ルイジノが打った場所の後方から飛び出しを推測することにした。

1メートル後ろから見ると地面に大きな穴が斜め角度に開いてボールが埋まっていた。「ルイジノ、凄いぞ!これを見ろや!ぎゃははは!!」土中20cmの中にしっかり埋まった白いボールが見えた。

こうして二人のゴルフ人生が始まった。

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    数年後、シアトルのゴルフ場で

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2008年04月15日

いきなりデートの誘い − スクールダンスは彼女と一緒

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アメリカの高校へ転校して、雰囲気にはすぐに慣れたものの、行事とか慣習とか分からないことだらけで戸惑うことも多かった。ジャッキーという二年生からデートの誘いを受けた。嬉しい気持ちもあったが、自分の好みと違っていたので「遠慮」してしまった。(もっとも、このデートを受けたとしてもワード家では自由が利かなかったのでどうなっていたかは分からないが)ジャッキーは髪がチリチリの超ショートヘアー。

今から思うと気軽に誘いを受けて交際術を習うことが大事だったのだろうが、当時の自分は「気持ちに正直」でないと付き合いはできないと考えていた。実はそれも大事だが、やはりお付き合いを通して男女関係を学ぶできだったんだろう。英語的思考が分からず(意味するところは文化です。)話はできるが相手にどう断ってよいのか分からず、訳の分からぬことを説明していた。この「お断り」の件以降、ジャッキーは私を遠ざけるようになってしまった。それは、私に断られたからではなく、訳の分からぬ理屈を話す変人と写ったからのようである。

花形スポーツと言えばアメリカン・フットボールである。留学当時、私は野球とサッカーファンでアメリカン・フットボールの「ア」の字も知らなかったし、また興味も無かった。こちらは体つきが小さく到底一緒にプレイするようなスポーツで無かったのが最大の理由だと思うし、ゲームが1プレイごとに中断するというのも大嫌いだった。考えてみると、それを言ったら野球も同じなのだが。

シーズン中のホームゲームになるとフット・ボールの試合のあとに学校の体育館でダンス・パーティーが催された。スチューデント・ボディー(生徒会)が主催しローカルのロック・バンドを呼んで開くパーティーにはPTAのボランティアなどが保護者として出てくるので父兄同伴などと心配する必要がない。まだ高校生だが、一年坊は兎も角、二年、三年になると付き合っているステディーがいて、連れ立ってくる。映画「アメリカン・グラフィティ」をご覧になった方は大体の雰囲気が読めると思います。アメリカ人にも「懐かしの郷愁」を覚えさせる映画でしたが、17歳でいきなりあの映画の中に入ってしまったような私はもっと感動しました。

その年のチア・リーダー(日本ではチア・ガールズ)は6人。びっくりしたのはそれが生徒の投票で選ばれることです。チア・リーダーになりたい女の子は練習してコンテストで選ばれなければなれません。3年生が5人で一人だけ2年生が入っていました。彼女の名前はモーリー・バーガー。今、思い出すとモーリーもナチュラル・カールのショートヘアーでした。(ショートでカールというジャッキーを断った理由が理由になってませんね。)超キュートな彼女は選択外国語のスペイン語のクラスで一緒でした。選択外国語はフランス語、ドイツ語、スペイン語から選択するのですが、2年生の必須科目で、私は3年でしたが卒業単位のために2年生と同じクラスに入りました。このクラスにはモーリーの他にもスージーやテリーなど可愛いブロンド娘がたくさんおりました。
本来は一番好きなモーリーをダンスに誘いたかったのですが、生徒会で選ばれたチア・リーダーのモーリーには恥ずかしくて(自意識過剰)声もかけられず、比較的似ているデビー・ムーアを誘ってみました。敬遠なクリスチャンの彼女なら快く受けてくれるだろうという甘い考えははっきりしたデビーの口調「ノー」で完全に打ち砕かれました。これは非情にショックな出来事でした。

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(今日の画像はクラスメイトの写真が手元にないのでお借りしたものです。)
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2008年04月14日

もう一つの家庭 = 緊急避難用ホームステイ先

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今から35年前、まだ留学生など少ない頃、当時は会社のアメリカ出張などもなく、従って「帰国子女」などいるわけも無い。個人留学を僅か17歳で、しかも滞在は大学卒業までの5年間という条件でアメリカに渡った私だが、シアトルのワード家と問題が発生したときに同対処するか、二次策まで考えておいた。
前年のYMCAの語学研修でワード家に一週間世話になったが、実はこの研修ではワシントン州の第2の都市、西部のスポケーンという町にも一週間滞在した。その時にお世話になったバートン家のママとの出会いがこの留学の決め手になったと思う。
何故なら、バートン・ママは理想の女性だったからだ。スポケーンまで飛んでYMCAに行くとホームステイ受け入れ先の家族が迎えに来ていた。そこで面白いことが起きた。別な家庭で1ボーイと1ガールを受け入れたいと申し出があり、清水君と塚原さんがその家庭に入ることになっていた。だが、塚原さんからクレームがあったようで(男子と同じ家庭に入りたくないとの理由らしかった。)清水君の行く家庭が無くなってしまったのだ。それでバートン・ママが男子二人を預かることにしたのだ。
Yからの帰宅途中、ベンツの後部座席に座り、夢中で「話した」。清水君は英会話はそれほどでもなく、もっぱら私一人でママと話をした。運転しながらママはバック・ミラーを覗き込み、私の目を見ながら会話に乗ってくれた。この時のママの印象は強烈だった。日本で習った「外人は人の目を見ながら話をする」がこれほどまで実感したことはなかった。
一週間の滞在期間中の自分の誕生日を迎えた。幼稚園から数えても誕生祝いを誕生日にしてもらうのは初めての体験だった。何故なら学校が夏休み期間中で、残念ながら誕生日の行事などは飛ばされてしまっていたからだ。ケーキにキャンドルを灯し、バースデー・ソングが始まった。ろうそくの火を吹き消すのは初めてで、どきどきしていた。歌が終わると同時に思いっきり空気を吸い込み、そして全部消した。と、安心したら1本が残っていた。慌ててもう一度吹き消す。ほっとしたと思ったら、まだ2本消えないでいた。??しくじったと思い、大急ぎで吹き消す。ちょっとオカシイナと思ったら、消えたろうそくの火が元に戻るのだ。トリック・キャンドルだったのだ。皆、大爆笑でその場が盛り上がった。
それから数日後、長年誕生日を祝ってもらえなかったと聞いたYMCAのミセス・ハンナがグループ全員を招待して私の誕生会を開いてくれたのだ。自宅プールで開かれたパーティーはホームメイド・アイスクリーム・パーティーと称して、手作りのアイスクリームで祝ってくれた。アメリカ人は実にパーティーが上手だと関心させられた。
このバートン・ファミリーがスポケーンにいたことでシアトル留学を決心したというのは強ち大げさなことではない。実はどうせ戻るならバートン・ファミリーのところに戻りたかったくらいだった。ワード家には失礼だが家庭の相性はバートン家のほうがはるかに勝っていたからだ。

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2008年04月13日

マイ・カーで学校へ通う高校生!

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高校生のパーティーに警察の手入れが入るなど驚くことの連続だった。兎に角、右も左も分からないのだから、‘兄弟’のトムにくっついて行くしかなかった。
朝6時前には母屋の親からインターフォンで「Get Up!!」と号令がかかる。今、思うと軍隊みたいである。毎朝、牛に餌を与えるのはトムの仕事だった。私が来てからは一日置きに交代ですることになった。

日本の街中で育った私には牛の餌付けはきつかった。大体、仕度がなってない。当時、日本から持っていった洋服はYシャツ、いわゆるドレス・シャツとごく普通のスラックス。それしか、無いのだ。ジーンズが爆発的に広まる前である。農家の手伝いをさせるために私を誘ったのかと疑われるような待遇だった。実際は、そうではなく、ごく普通の家庭内の手伝いなのだが、そう思われるような内容だったのも事実である。
夏休みなどはトムと二人で農場のバラ線(有刺鉄線)の修理から私道の整備など主にアウトドア関係の作業をさせられた。ワード家の両親はどちらも大柄で息子、娘も例外ではなかった。慎重が低いだけで馬鹿にされた。それだけでも彼等のメンタリティーの低さが分かる。トムはいたづらが好きでよく私のズボンをずりさげようとした。その度に私は柔道で反撃せねばならなかった。(映画アメリカン・グラフィティをご覧になった方は冒頭で悪ガキジョンにズボンを下げられるテリーを思い出してください)

学校へは映画でもよく目にする黄色いスクールバスで通学するが、中にはすでにマイ・カーを持っていたり親の車で通学する者もいた。これには驚いた。当時、私がいたワシントン州では15歳半になると免許が取れた。正式には16歳からだが、16歳前に免許取得はできるのだ。
しかも、学校の授業で教えていた。私もMR.リストーから運転の授業を受けたが、ワード家のママは免許を取るのを許さなかった。運転が下手で危ないというのが理由だった。(上手になるまで教えてくれればよかろうに)

背が低いというだけに「いじめ」(当時は「いたづら」という感覚)にもあった。そんな時、学校が「プリズン」刑務所と思えたが、反撃せねば常に標的になる。皆が皆、悪いわけでは無かったが、「からかい」や「いじめ」を静止するような奴もいなかった。幸いだったのは、それがいつも「1対1」だった。「荒野の決闘」よろしく、1対1ならフェアーだ。一度だけ、二年坊主等に囲まれたことがあったが、昔見た中村金之助(萬屋錦之助)の「宮本武蔵−一乗谷の決闘」よろしく、走りながら分断し一人ひとりやっつけながら逃げ切ったこともあった。

このようなことが数ヶ月続いたある日、最大のチャンスがやってきた。授業が終わり生徒が一斉に正門に集まりだした。スクールバスが何十台も駐車していた。生徒はバスに乗らず、皆駄弁っていた。正門中央に立っていると一人のノッポの二年坊主がやってきて私をからかいだした。ちらっと相手を見るとジーンジャケットを着ている。「よしっ、こいつだ。」彼の右襟をぎゅっと掴むと鮮やかな「背負い上げ」で彼をコンクリートの地面に叩きつけていた。

「オオー!」「ヒュー!」「スーパー!」「グレート!」周りから賞賛の嵐が聞こえてきた。そして、それが校内に伝わったと見えそれからは「いじめ」がなくなった。

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2008年04月12日

警察の手入れにびっくりした最初のパーティー

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私を招待したワード家の家族構成はDad, Ma,Thomas,BobbiそしてKathyの5人家族。長男のトムとは同い年だった。(トムの方が半年若かった。)二人の妹ボビーは二つ下で、キャシーは4歳下だった。それに親父の飼っている犬、ハンツとキャシーの犬レイがいた。

後で感じたことだが、家族の誕生星座を見るとしし座の私と相性が良い人は一人もいなく、どちらかと言うとおとなしい社交性の無い星座ばかりが揃った家だった。そして、父も母もニューメキシコ出身でどちらかと言うと人種偏見を持っている地域からワシントンに越してきた家族だった。ワード家の人々は南部訛りの英語を話していたので非情に聞き取りにくく、最初の頃は全くチンプンカンプンだった。自分の英会話に対する自信は崩壊していた。

日本を出る前に手紙のやり取りで夏休みの計画を聞かされていた。アメリカは6月には学期年度を終え9月まで長い夏休みに入る。その期間に故郷へ帰省するため、イェローストーンからヨセミテ、そしてニューメキシコと国立公園を縦断する旅行を計画しているとのことだった。だが、おりしも第一次オイルショック(日本でもトイレット・ペーパーの買いだめなどが起こった年)でガソリンの高騰でこの旅行は単なるイエローストーンだけの旅行になってしまった。がっかりしたのは言うまでも無い。

そして、9月1日のレーバー・デイの祝日、近くの公園で催された屋外ロックコンサートを最後に2日からボッソル高校に通い出した。教科は年間を通して受ける授業3科目と単学期だけ受けられる職業的教科に分かれていた。日本の高校で受けた授業をアメリカの教科科目に合わせ、卒業できるように授業科目を決めた。この辺のアメリカの体制には寛大さと柔軟性に驚くとともに合理性に感心した。

ワード家のトムは喫煙者だった。私は日本の友人がたばこを吸い始めた時期であったが、自分は絶対に吸わないと禁煙を決め込んでいたので、トムと彼の友人を遊びに出かける時は後部座席の窓を開け、外の空気を吸い込んでいた。トムはたばこの他にもマリちゃんを吸っていた。週末になると母屋から離れた納屋のようなトムの自室に友達を呼びマリちゃんパーティーをよく開いていた。いつも集まるのが一級上のジェリーと(今考えるとトムとジェリーか)隣の学校に通っていた長身(1m90cm以上)のテリーだった。

二、三週間後の週末、トムに連れられて誰かの家で催されたパーティーに行った。私が留学して最初の外でのパーティーである。普通の住宅街の一軒家の前には何十台もの車が留っていた。トムやジェリーの後を付いて家に入ると超満杯の人で埋まっていた。これがアメリカのパーティーなんだ。皆、15,6から18歳くらいの高校生。ビールを片手にわいわい雑談をしていた。ほとんどの人がマリちゃんをやっていた。当時のワシントンでは飲酒は21歳以上だった。即ち、ほとんど全員が未成年の飲酒なわけだ。そこへ持ってきてマリちゃんだ。ス・ゴ・イ!凄すぎる。

いきなり誰かが何かを叫んだと思ったら、皆大急ぎでドアから出て行く。何が起こったのか分からず一緒に外へ出るとパトカーの青いランプが点灯し回転していた。パーティーは即解散となった。17歳の私にとって度肝を抜かれた最初のパーティーであった。

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2008年04月11日

17歳の単身渡米

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翌朝、駅まで家族、仲間に送られ電車で東京へ。有楽町から乗るモノレールはすでに胸をわくわくさせていた。成田空港ができる前である。羽田まで高校に友が何人も見送りに来てくれた。

前年の初めての渡航はYMCAの団体旅行だが、今回は一人だ。海外出張など、まだ無い頃だ。外貨取引規制の制限が緩和されて間もない頃で、日本がやっと敗戦のイメージから脱出した頃だったように思う。

東京からまっすぐシアトルへ行っても芸が無い。学校だってすぐに入る訳じゃないのだ。中学時代に読んだ竹村健一のノウハウを見習い、正規料金の規定距離を自由に使い、片道(留学なので当然そうなる)の行程を東京−ロスアンジェルス−サンフランシスコとした。

サンフランシスコからシアトルまでの行程は未定とし、アメリカ入国後に手配することにした。今から35年前、まだ17歳の青年が一人でこれをやるのであるから、当時の家族や友達は信じられないでいる人も多かった。

前年のYMCAの英語研修の時、ディズニーランドで知り合ったコニーと文通をしていたので、ロスでは彼女の家に泊めてもらうことになった。あまりはしゃいで遊んでいたので、彼女の顔もはっきり覚えていなかった。彼女から来た手紙にある電話番号だけが頼りだった。ロスの空港に到着し、入管を出て来ると、早速公衆電話を探した。お母さんと娘二人がこちらを見ているのが分かったが、気持ちにゆとりが無かった。

公衆電話にコインを落とし、呼び出し音が鳴る間、さっきのファミリーに目をやるとまだこちらを見ていた。確か、家族は用事があり空港まで出迎えには来れないと手紙に記してあったはずだ。だが、コニーはお母さんと妹と一緒に空港まで迎えに来てくれていたのだ。

劇的な再会であった。乗っていた車は忘れてしまったが、アメリカ車のでかい車だけは覚えている。家に帰る途中、BIG BOYとか言うファミリーレストランで朝食をご馳走になった。

17歳とはいえ、自分で英会話の勉強はしていたので、少しだけ自信があった。二日間のコニー宅滞在はあっという間に終わり、次の目的地、サンフランシスコへ飛んだ。そこには、やはり前年に渡米した安蔵さんがハウスメイドとしてお金持ちの家に住み込んでいたのだ。

場所はどの辺だったか詳しく覚えていないが、確かゴールデンゲートが見える高級住宅だったと思う。サンフランシスコはこれで二度目だ。別に何をするでなしに、二度目ということだけで満足していた。

シアトルへ行く前にどうしてもカナダのバンクーバーへ行きたかった。高校の学園祭で知り合ったキャロリンと彼女の家族が日本を離れバンクーバーへ帰ってしまっていたのだ。彼女に会いたい一心でサンフランシスコからバンクーバーへ飛んだ。空港からはタクシーに乗り、運転手に住所を見せ、連れて行ってもらった。(今考えると「無謀」とも思えるが)ところが、連れて行ってもらった家に着くと留守で誰もいない。

運よく、まだ昼過ぎくらいだったので、彼女の家の前の芝生に寝っ転がり家族の帰るのを待つ。隣の家から6歳くらいの男の子が出てきた。不思議そうに何をしてるのか尋ねてきたのでキャロリンを待っていると言うと、自分の家に来て待ってるように誘ってくれた。(6歳の子に世話になった。−大爆笑)

キャロリンの家に数日、お世話になり、そこからはグレイハウンド社のバスでシアトルへ向かう。この方が飛行機よりはるかに安いとキャロリンのお父さんが勧めてくれたのだ。

シアトルのダウンタウンのグレイ社のバス・ターミナルでワード家の出迎えを受けた。その時にすでに気持ちのすれ違いを感じ取っていた。彼等にすれば「何故、まっすぐ受け入れ先家庭である自分の所来ないのだ」という雰囲気だった。自分はせっかくの機会だからこのチャンスをものにしたい、それだけの気持ちだ。よい勉強になるではないか。この辺の考え方の違いは、その後一年の留学に大きな隔たりを生んだ。

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2008年04月10日

個人留学の招待−一体何のために??

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YMCAの語学研修旅行から戻った高校2年の9月、2学期が始まってまもなくだった。引率の先生、千葉の野々宮先生から電話をいただいた。驚いたことに、私にアメリカの高校に留学する気持ちがあるか尋ねられたのだ。勿論、答えは最初から「イエス」に決まっていた。

詳しく聞くと、私が滞在したシアトル郊外カークランドのワード家から野々宮先生宛てに手紙が来て、私に留学する気持ちがあるなら1年間ホームステイとして受け入れたいので、本人に確認して欲しいという内容だった。今でも鮮明に覚えているが、喜びに爆発して狭い台所を一人で何回もぐるぐる回ってしまった。

父も母も仕事一途で生きてきて、どのように決断して良いのか分からなかった。そこで母は旦那が東大の教授という高校時代の友人に相談をしたそうだ。そのアドバイスは「招待にある1年間の米国滞在で日本に戻ると、日本の高校が1年留年になりハンディになるので、どうせ行くのなら1年ではなく大学を卒業するまで(つまり5年間)の方が良いだろうということだった。

母は恐らくそれを聞けばまだ高校2年生でしかない私の留学の気持ちが失せて取りやめるだろうと思ったのだと考えている。私の感性は全く反対であった。1年ではなく最初から5年の方が狭い日本にいなくて良いのだ。しかもその条件を飲めば両親と交渉は解決するのだ。二つ返事でOKした。

それよりも私が心配したのは、むしろ両親の心変わりだった。そこで一計を案じた。父の友人、知人に会うたびに「アメリカの高校に転校する」と公表し、両親が引き下がれない環境を作ったのだ。そしてそれは、自分自身にも同じだった。(別に変更する気はさらさら無かったが)

ワード家の誘いはなるべく早く来るようにということだったが、翌年高校2年の最後には修学旅行も行事に入っていたので、それが終わり3年の年に目標を定めていた。4月に進級してクラス替えが行われたが、誰がそのクラスにいたのか全然覚えていない。何故なら渡航までのその期間は学生ビザ取得などの準備で学校を休んでいたからである。

今から35年前の当時は個人留学など日本でも数少ない時代であり、地方の旅行会社では何も知らずできないでいた。帝国ホテル内にあった藤田観光の事務所で確認作業をしながら自分で米国大使館へ行き、ビザを取った。

そして、5月5日、子供の日を出発日と決めた。前日には高校の仲間を誘い、自宅2階で盛大な「お別れ会」をした。当時にしては画期的企画である。それがまだ高2の17歳。すでにアメリカ的センスで生きていた。

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2008年03月22日

35年前のニューヨーク

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パタヤ移住に当たって、古い写真を全てCDにしてもらった。昔の写真とネガが溜まりに溜まって全部で200本位になっていた。

全てが10枚程度のCDに収まった。こんな技術の進歩は想像もできなかった。

1972年、YMCAの語学研修で初めてアメリカの土を踏む。今でも鮮明に思い出せる。36年前のニューヨーク。ずっとアメリカは「理想の国」のはずだった。

ハワイ−シアトル−スポケーン−ワシントンDC−ニューヨーク−ロス・アンジェルス−サンフランシスコ(オプション)−帰国

40日間の日程はあっと言う間に終わっていた。当時、約40万円。今のお金で幾らくらいになるのだろう?

帰国してからも毎日、アメリカにうなされていたっけ。英会話が大好きで映画「小さな恋のメロディー」も学校をサボり7回も見に行った。ビージーズのBGMも最高だった。

そのビージーズは今でもパタヤのどこかで聞くことができる。

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