2009年12月24日

思い出のクリスマスイブ

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    スポケーンの大聖堂

毎年、クリスマスになるとアメリカへ行ったばかりの事を思い出す。YMCAでホームステイした二軒のうち、シアトル郊外のカークランドのワード家の招待で高校留学が実現したが、このワード家とは折り合いが悪かった。

一年という期限付きの留学であったが、5月に渡米してから9月の新学期に入るまでに段ボールの箱に自分の荷物を詰め、いつでも引越しができるように準部するくらい嫌な家庭だった。

別の家に引越しするのは翌年まで待たねばならなかったが、その冬休みを利用してもう一軒のホームステイ先のスポケーンにあるバートン家を訪ねた。

ワード家にいたくなかったのが理由であるが、チャーミングなママのいるバートン家に世話になれるか様子を見に行くのが目的だった。

二度目の滞在となったスポケーンのバートン家で迎えるクリスマスは自分のイメージしていたアメリカの生活だった。

太平洋側にあるシアトルと違い、山を越えたスポケーンは内地で寒く、雪で覆われていた。正真正銘のホワイトクリスマスとなったのである。

思い出というのは家族でクリスマスのミサに出掛けたときのことである。いきさつはすでに忘れてしまったが、そのミサで出会ったばかりの少女といい雰囲気になり、ミサが終わった教会の外で、その少女と熱いキスをしてクリスマスを祝ったのだ。

滅茶苦茶可愛い子だったが、「教会」「雪」「クリスマス」「少女」「キス」とすべてが映画の中の世界だった。まだ17歳で行ったばかりのアメリカで映画のようなシーンの中に自分がいるという感覚は言葉に表せないような身震いするような刺激的な光景だった。

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posted by ラッキー at 10:47| バンコク | Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月21日

武器所持で警察がやってきた−ヌンチャク騒動

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    ソウルで買った土産もこのような金属製だった

両親の承諾ももらった完君と一緒に航空券の手配に東京に行った。これで晴れて彼もシアトルに留学することになったのだ。

私が羽田を出発する日、同級の仲間が見送りに空港に集まった。完君も「見送り」の一人として空港に来ていた。見送りの連中はまさか完君も一緒に飛び立つとは思ってもいなかった。

仲間を出し抜いてやろうと計画したプランは私を見送りに来た完が先に出発するという愉快なものであった。

実は私の便はアメリカに直行ではなく羽田からソウルに飛び、一泊した後ロスに向う行程だった。その為、先に出発した完君はロスで一泊して私を待たねばならなかった。

完君を見送る私は「ロスの空港で会おう!」とそれだけ完君に言った。当時、ロスではゲートまで入ることができ、そこで出迎えと出会うことが可能なのを知っていたからだ。私の到着を待ってゲートまで入れるのだから再会するのはそう難しいことではないと考えていた。

完君を見送った後、同級たちに見送られ私はソウルへ飛び立った。そして、翌日出発前に市内観光があり、兄弟のスコットに鉄製のヌンチャクを土産として購入した。夜の便でソウルを経ちロスへ向った。

到着後、完君が待っているはずのゲートを出たが彼の姿を見つけることはできなかった。私は少しゲートで待っていたが、彼が現れる様子がない。段々と心配になってきて、荷物の到着する階下へ下りていった。

辺り構わず探し周ったが完を見つけることができない。その頃は携帯電話などという便利な物はない。見つかるまで探し続けるしか方法がない。確かに空港内で会う約束はしておいたのだから、空港内をぐるぐる探し周るしかなかった。

二度、三度、階下へ行ったり、上がったりしていたエスカレーターで奇跡が起きた。私が下がるエレベーターで下りている時に完が昇りのエスカレーターで上がっていったのだ。まるで、本当に映画のような再会劇であった。

こうして合体した二人は夜のフライトでサンフランへ飛び、早朝の乗り継ぎでシアトルへ向うことにした。全部、18歳の私のプランだ。この頃の生き方が後のガイド業へと繋がっていったのかも知れない。(ツアコン・ガイド時代)

早朝便でシスコからシアトルへ向うはずだったが、サンフランの空港で事が起こった。ソウルで買った土産のヌンチャクが問題となったのだ。

今から30年以上も前のことである。空港でのセキュリティーチェックなどほとんど無いにも等しく、手荷物検査も適当であった。事実、ソウルからロス、ロスからシスコと何も問題なくヌンチャクを手荷物に入れ持ってきたのだ。

ところが、サンフランからの早朝便に乗る搭乗口でのチェックで「待った」が掛けられたのだ。空港職員は私のヌンチャクを見つけると「これは何に使うのだ?」と問いただした。私がスコットのために買った土産だと言うと怪訝な顔をして「通すわけには行かない。どうすれば良いか俺では判断ができん。ここで待っていなさい」と待たされることになってしまった。

完君はすでにチェックを終え、搭乗できる状態でいた。空港職員は警察に連絡したのだ。ところが、時間帯はまだ深夜である。連絡を受けた警官がなかなかやって来ない。私が待たされている間に搭乗時間になってしまった。

乗客がとんどん搭乗口から機内に入って行く。チェックカウンターの向こう側に見える完君の顔も心配顔だった。黙ってはいたが「おい、どうするんだ?」と言っているようだった。

やっと警官がやって来た時にはほとんどが乗客してしまい、残されたのは二人くらいだった。「Under the California Law・・・・」カリフォルニア州法においてこれは「武器」になり、即ち武器所持という違法行為であると言うのだ。

冗談じゃない!私は別に武器を所持しているつもりはない。第一、ヌンチャクなど使えないのだから。そんな物、振り回してもせいぜい自分の頭をぶつけるくらいだ。

そのような反論を警官にすると「それでは、これは没収するから書類にサインしろ!」と言う。そんなサインなどしている暇は無い。没収するのは構わないが、さっさと持って行け!」と言ったが警官は署名する書類を用意すると言う。私が何度も出発の便は我々二人だけで、乗り遅れると抗議し、署名はしなくて済んだ。機内に入り、座席に着いた時には完君も私もぐったりきていた。二人とも死にそうに疲れていた。

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posted by ラッキー at 00:18| バンコク ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月12日

チャーター便四海包機が大韓航空に変更

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    チャーター便から大韓航空便に振り返られた

ロス−サンフラン−シアトルと飛ぶはずのチャーター便は予定とはまったく正反対のシアトル−サンフランと飛び乗客を乗せたままロスに着いた。全乗客をホテルに移動させた四海包機は日本政府と空港使用料の交渉を続けていたが、最後までまとまらなかった。

ホテル代や食事代も嵩み、遂に四海包機はチャーター便を飛ばすことを諦めざるを得なくなった。そして、究極の策に出た。

何と全乗客を当時まだIATAに属していなかった大韓航空機に乗せるというのだ。我々乗客のほとんどは疲労困憊していたが、私は元気だった。こんな所に遭遇できるのは滅多にない。シアトルの友人たちはてっきり私が日本に着いていると思っていたが、サンフランから電話をすると皆私の話しを喜んだり驚いたりしながら聞いていた。

羽田空港で待つ日本の友人たちは皆空港で私の到着を待っていたが、いつまで経っても飛行機が到着しないので解散した。

私たち乗客はロスで一泊した後、ソウルへ向けて飛び立った。ソウル経由になったのである。

初めて到着した金浦空港は(今から約35年前)まだ灯りも少なく、空港から市内に移動するバスの中で年配の日本人が言った。「こりゃ、終戦後の日本のようだ!」

事実、当時はホテルと言えどもまだ麦が混ざったご飯を出されたものである。韓国が飛躍的に成長するのは1988年のオリンピックを契機としてからだ。

翌日東京へ出発するまで、市内観光などを楽しんだ。景徳公園に立ち寄った際、土産屋で売っていたヌンチャクをスポケーンのスコットに土産に買った。まさか、このヌンチャクがその後シアトルへ帰る際に大問題になるなどとは全く知らなかった。

観光も終わり、金浦空港から大韓航空機で東京へ飛び立った。夏休みの日本帰国はやっと東京到着となったが、このへんてこな旅はそれでは終わらなかった。

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2009年11月11日

格安チャーター便は日本に到着できるのか?

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    何も知らされない乗客たちは・・・・

昨日からの続きである。ロスを基点にサンフラン、シアトルと乗客を乗せ日本に向うはずの飛行機がシアトルから南下しサンフランに到着した。

格納庫で一夜明かしたシアトル組40人は通路が開いた翌朝、100人以上のサンフラン待機組と合流し、市内のホテルに移送された。

時は8月、真夏のサンフランのホテルで待機させられ、私は自分のジーンズを切り取り短パンにしてホテルのプールで泳いで過ごした。午後4時過ぎ、召集が掛けられホテルのロビーに集合すると空港へ向け出発すると言う。

ところが、それは日本へ向けての出発ではなかった。何と私の大好きなPSA(Pacific Southwest Air)でロスへ移動すると言うのだ。何故、私がPSAの大ファンだったかと言うと1973年に初めてアメリカを訪れた時に乗ったことがある航空会社でスチュワーデスのミニスカートとホットパンツで人気を博している航空会社だったのだ。

シアトルとサンフランからの客を全員PSA便でロスに移動させることにした四海包機社は日本政府との交渉を続けていたが合意には至らなかった。結局ロスに着いた乗客はホテルに連れていかれ一泊することになった。

日本政府から安い空港使用を認められなかった四海包機の便は飛ぶのを断念せざるを得なかった。翌日になり全員大韓航空を使うことになった。当時、大韓航空はロス−東京は便が無く、ロスからソウルへ飛び、別の便に乗り換えソウルから東京へ飛ぶことになった。

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2009年11月10日

飛行機の空港使用料を知ったきっかけ

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    正規料金が高いので格安チャーター便を使うことに

今から30年以上も前、まだ私が10代の時、留学先のシアトルから夏休みで日本に帰国することになった。仕送りの両親に負担をなるべく掛けまいと安いチャーター便を見つけた。

記憶は確かではないが「四海包機」という名の香港辺りのチャーター便だった。当然、正規の便と違い、発着の時間帯が極めて悪い、要するに空港が暇な時間に使わせてもらうわけである。こちらは学生、しかも夏休みなので時間帯に不便も便利もない。安い方が良い、ただそれだけの理由である。

私が乗ったチャーター便はシアトルを出た後、アンカレッジに給油に立ち寄り、それから東京へ向うはずであった。

ところが、飛び立った飛行機の様子が不思議かった。進路は北へ向けて飛ぶはずなのに、どうも南に向って飛んでいるようなのである。

もう一つ、不可思議なことがあった。それは乗客が少な過ぎるのである。この便はロスを基点にサンフラン、シアトルと乗客を乗せ、それから東京、香港と向うチャーター便なのだ。

当時、まだ19歳だったが、私は何度も飛んでいた経験から事態を察し、こっそりスチュワーデスに聞いてみた。

他の客は知らなかったが、私の想像は当たっていた。飛行機は南下していたのである。そして、数時間後、サンフランに到着した。格納庫のような所に停車した飛行機を降りた私たち約40名はそのまま格納庫の通路のようなところで「寝る」ことになる。

つまり、そのまま夜を明かしたのだ。翌朝、格納庫の通路を塞いでいたドアが「ガラガラ」と音をたてて開いた。繋がっている通路の反対側に100人以上の客が同じように待機していた。

乗客は一体何が起こっているのか誰も判らなかった。空港のレストランで朝食が振舞われた。そして、我々の期待を裏切り、サンフランのホテルへ移動となったのである。
私はあちこち走り回り情報収集に務めた。そして、判ったことは日本政府(空港担当部署)が空港利用料金を値下げしてくれないので、着陸できないというものだった。

恐らく、このチャーター便は深夜、或いは早朝と他の正規の便に不都合を掛けない悪い時間帯の空港利用なのでバーター(交渉)可能だと踏んで離陸したようなのだ。だが、日本政府との交渉がまとまらず、待機指示がでて、乗客を一時ホテルに滞在させたのだった。
(続く)
日航再建、空港使用料支払い猶予検討
11月9日21時17分配信 TBS
 日本航空は、着陸料や施設使用料として、年間およそ1000億円にのぼる空港使用料を毎月、国や空港の運営会社に支払っていますが、日航の資金繰りが急速に悪化しているため、国土交通省はこれらの空港使用料を当面の間、猶予する方向で検討していることがわかりました。

 また、日航が今月中に必要な数百億円のつなぎ融資については、、日航の売り掛け債権や、運航事業を担う子会社の「日本航空インターナショナル」の未上場株式などを担保にした上で、政府保証を付けずに主力の取引銀行から引き出す案も浮上しています。

 政府は今週末の日航の中間決算を前に新たな支援策を発表する方針です。(09日20:48)

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posted by ラッキー at 12:32| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月01日

アメリカ大学時代のハロウィーン

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    コスチュームを着て寮を出る学生たち

昨日はハロウィーンだった。昔の写真を見て、懐かしく思った。ウェスタンワシントン大学に入学して、学生寮に住んでいた当時、寮の学生たちとハロウィーンに繰り出した。

アメリカでもこういう面白い行事があって、子供ばかりではなく大人も同じように参加するから凄い!

アメリカには「人間が正気でいるためには、時々羽目を外さないといけない」という言い表しがあるくらいである。まあ、日本語に言い換えれば「無礼講」とでもいうのだろうか。

それに加え、大のパーティー好きな国民性である。本当に青年時代に10年近く、アメリカで暮せたことはその後の人生に大きな影響を及ぼした。ある意味、アメリカン・スピリットがあったからこそ、ここまでやって来られたのだと思う。

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posted by ラッキー at 17:44| バンコク | Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月10日

檻の中へ入る留学生(昨日からの続き

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    身元引受人となってくれたアイリーン

私は収監の日の朝、ステーキ朝食を鱈腹食べてからベーリングハムの拘置所へ向った。約束どおり午前8時に出頭したのだ。

これから24時間、この拘置所で収監されなければならない。飲酒運転の裁判で出た判決による三つのペナルティーの最後の関門だった。50ドルの罰金、20時間の交通セミナー、そしてこの24時間の「拘置所体験入所」というのをクリアすれば免許剥奪は免れることになっていた。

入所体験は先ず身体検査から始まった。と、いうか正確に記すならば単に「服を脱いで着替えた」ということなのだが、こっちとしては何分初体験である。身体検査のように思えた。

看守はすぐにオレンジ色の収監服を持ってきたが、アメリカ人のサイズばかりででかくて着ることができない。私が「でか過ぎる」と文句を言うと苦笑いしながら別の物を持ってきた。それは子供用のオーバーオールだった。

自分の持ち物すべて籠に入れ看守に渡すがタバコだけは離さなかった。中ではやることは無いのだからタバコくらいは持って入りたかった。だが、看守は私のタバコを取り上げ「今日は何曜日だ?ん、売りに来る日だから中で買え!」そう言って私を拘置所の檻に連れて行った。

そこは大部屋だった。40畳ほどの大きさの檻の中には30人くらいいただろうか?恐る恐る中に入ると中では朝食が終わるところだった。片付けが終わると皆、めいめいに寛いでいた。

私は16歳くらいの若い兄ちゃんを見つけ彼の近くに座った。二時間ほどタバコを売りに来るのを待っていたが、いつまで経っても来ない。気が付くとその若い兄ちゃんがタバコを吸っていた。私は彼に声を掛けた。

「今日はタバコを売りに来る日だと聞いたんだが・・・」若い兄ちゃんは「今日は来ないよ」と言い、良かったら俺のを吸えとタバコを差し出した。私はありがたく頂戴した。

「What are you in for ?」(何でぶち込まれたんだい?)と若い兄ちゃんが聞いてきた。私は飲酒運転の経緯を話し始めた。

日が暮れる頃にはすっかりこの兄ちゃんと仲良くなっていた。夜になると看守が点呼にやってきた。

その前にこの兄ちゃんは大部屋の端に自分の寝る場所を作っていたので、私も彼に従って自分の寝る場所を確保していた。

だが、残りの大人数は通路を隔てた所にある8人入りの小さな檻の方へ移動していた。私は正直、この小部屋の檻を見た時にはショックだった。その中へぶち込まれた日にゃ、いよいよ映画のようなレイプが行われるのではないかと心配になったのだ。それは嫌だ。

点呼にやってきた男が私の名前を呼んだ。彼は小さな檻に向って私を探していたのだ。「Yes, sir」私は大きな声で看守に自分の存在を証明した。

「おい、お前はそこじゃない。こっちに入るんだ。」看守はそう言ったが私は反論した。「俺はもう此処に寝る場所を作ってある。明日の8時には出所するんだ。構わんでくれ。」断固として場所を動かなかった。

看守も私が交通違反で「体験入所」ということを知るとそれ以上構わなかった。助かった。絶対絶命のピンチであった。

ろくに眠れず一夜を過ごした。翌朝になると、前日知り合った数人の連中が朝食を一緒に食べようとやってきた。話題は入国拒否にあったポールマッカートニーだった。

収監されていた連中は出所したら連絡を取りたいと私の電話番号を聞いてきた者もいたが、適当にはぐらかした。別に娑婆へ出て連中と付き合いたいとも思っていなかった。

午前7時からが長かった。本当は一時間はあっという間に過ぎ去る訳だった。反して待っている一時間は長かった。

やっと8時になり「これでお勤めは終わりだ。」と思って看守を待っていたが、いつまで経っても出してもらえない。徐々に心配になってきた。「もしかして忘れられたら・・・」9時になっても呼ばれる様子がない。

思い切って看守に声を掛けた。「もう9時を過ぎているぞ。どおしたんだ?」もう少し待てと言った看取が表れたのはその一時間くらい後だった。

やっと10時過ぎに解放された私は拘置所の玄関にあったゴミ箱を思い切り蹴飛ばして出てきた。(足が痛かったのは言うまでもない)

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2009年10月09日

留学生、DWI(飲酒運転)で裁判を受ける

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    大学内には拘置所拘留のニュースで持ちきり

先日、記したように孝一と出かけた飲み屋で親友ブルースと兄弟のルイジノに出っくわし、酒を散々ご馳走になってしまった私は、その帰り道で高速パトロールに車を止められてしまった。

パトカーに乗せられ向った事務所では「風船」と呼ばれる飲酒テストを受けさせられ「黒」と判定されてしまった。基準値の倍もあったのだから「判定」も糞もない。

元彼女アイリーンが身元引受人となり、帰宅を許された私だったが、後日、裁判所に出向いて裁判を受けることになった。

それまでにもスピード違反とかで何度も交通違反の裁判は受けたことがあったので、裁判自体は慣れたものだった。

だが、今回は飲酒である。裁判官から言い渡された判決は
1. 50ドルの罰金
2. 20時間の交通規則の講習 または コミュニティー・サー     ビス(実労)
3. 24時間の拘置所入所

であった。ふ〜む。やはり、スピード違反と違い判決は予想以上に厳しいものであった。

私はすぐに罰金の50ドルを支払うと、#2に関してどうするか問われた。20時間の講習を受けることにした。

問題は最後の24時間の拘置所入所であった。すれに大学のキャンパスでは留学生が拘置所入所というニュースが広がり、通学中に出会う友達からは「何時、入るんだい?」とからかわれていた。

机の前に貼ったカレンダーを見ながら入所する日にちを決めなければならなかった。裁判所に連絡して入所する日時を確定すると、その前の晩は親代わりのリック&ベッキーの所へ泊まった。

クリスチャンに改宗していたベッキーに「檻の中」で襲われないように祈ってもらったりした。自分のケツにレイプされるのを危惧したからだ。

そして、入所の日が来た。朝、8時に州の拘置所へ出向かなければならない。入所する前に娑婆の最後の食事と思いステーキの朝食を食べにいった。拘置所内ではどんな食事がでるのか見当も付かなかったからである。

鱈腹、腹ごしらえをした私はいよいよ拘置所に向った。(続く)

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2009年10月07日

元彼女アイリーンが身元引受人になる

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      身元引受人となる元彼女アイリーン
      (左はブルース)

ワシントン州ベーリングハムにあるウェスタン・ワシントン大学に在学中のことである。全米で大ヒットしたテレビ映画「将軍」が初放映された時だった。10時間ドラマを四日連日で放送されたのだが、事件はその時に起こったのだ。

10時間ドラマの放送時間は初日4時間、二日目と三日目が3時間、そして最終日が4時間、こういう区分けになっていたのを知らなかった。

事件はその二日目に起こった。私は神戸から来た留学生、孝一を招き自室でこの将軍を見たのだが、二日目も4時間放送と勘違いしていた。つまり、一時間早く放送が終わってしまったのだ。

この映画の出来は素晴らしく主演のリチャード・チェンバレンが扮する三浦鞍人の日本体験に興奮し、そのまま寝たくなかった。

財布の中を覗くとろくにお金も入っていなかった。恐らく、10ドルか20ドルしか持っていなかった。これならバーに行っても酔っ払うほど所持金が無いのだから安心して出かけられる、そう思い孝一を誘い飲み屋へ繰り出した。

カクテルを一杯飲んで帰ろうと店に入ると運が良かったのか友達に会った。前にルームシェアで一部屋間借りしていた時の相棒ブルースだった。

「おい、ラッキー、久しぶりだな。一杯、驕るよ」と気さくなブルースは孝一と私にドリンクを差し入れてくれた。

二杯目を飲み干した頃、後ろから別な声が聞こえた。ボッソル高校でホームステイさせてもらったイタリアンの兄弟ルイジノだった。彼とはすでに3年以上も音信普通だったのだ。彼は同じウェスタンW大学を卒業した後、ベーリングハムに残り、アラスカでサーモン漁の船で仕事をしていたのだ。

丁度、漁から戻ったばかりの晩だった。久しぶりに再会できたルイジノは孝一と私にドリンクのお代わりをご馳走してくれた。何杯飲んだか分からない。

ちょいと一杯のつもりで入った店で兄弟と親友からドリンクを薦められすっかり酔っ払って店を出た。

孝一を送った後、自宅へ戻るのに帰宅途中の事だった。突然、後ろから青白のライトが点滅し、車を止めるように指示された。パトカーとも気がつかず、そのまま少し走っているとでかいマイクで呼び止められた。

車を路肩に止めると、後ろにパトカーからお巡査が降りてきた。窓を開けると両手をハンドルの上に見えるように置くように言われ、そのようにする。それから、免許証を提示すると、パトカーに乗せられ警察に連れていかれた。

飲酒テストを拒否すると罰を食らうとか言われ、ビニールの管を口に入れ素直にテストに応じた。出た数字は覚えていないが、基準値をはるかにオーバーしていた。

ポリスが言った。「誰か身元引き受け人はいるかい?」???こちらは留学生である。ホストファミリーはすでに無い。ルイジノもブルースも一緒に飲んでいたのだ。その場へ来てもらう訳にはいくまい。

とっさに元彼女アイリーンが頭に浮かんだ。彼女に電話するとアイリーンはすぐに飛んできてくれた。

待つ間、疲れと酔いのせいで睡魔が襲ってきて眠くなってしまった。うとうとしかけた所へアイリーンが来てくれ、無事釈放された。帰りの車に乗り込むとそのアイリーンも酔っ払っていた。

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posted by ラッキー at 10:59| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月08日

ひと夏に四度の初めてのバースデー体験

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    ホームメイドアイスクリームパーティー

私の誕生月は8月なので幼稚園時代から誕生会には縁が無かった。今でなら夏休みということで誕生会も開けるのか知れないが当時は夏休みというと毎日が同じようにただの休み扱いで両親とも共働きで商売をしている関係上、忘れられることが多かった。

幼稚園にしてもそうだった。4月の入園月から毎月のように誕生会が開かれていたが、8月はお休みになっていて、祝ってもらうことは無かった。

1972年、YMCAの語学研修旅行に参加した私はそれが夏休みということもあり、生まれて初めて誕生日を祝ってもらう機会に恵まれた。

誕生日には二軒目のホームステイ先のバートン家で生まれて初めての誕生祝いをしてくれた。「世界で一番歌われているソング」ハッピーバースデーを歌ってくれた時は少々、心臓がどきどきしたものだ。

そして、歌が終わると同時に火のついたキャンドルに向かい思い切り「ふ〜」と息を吐きかけた。全部、無事消したと思ったら一本、二本、火が消えてなかった。慌てて、もう一度、息を吹きかけた。消えたと思った私は笑顔で席に腰を下ろすと目の前のケーキの蝋燭に火がついているではないか。

焦った私は再び、腰を上げキャンドルに向かい息を掛ける。それを見ていたバートン家の人々は大笑いをしていた。実はこのキャンドルはトリックだったのだ。つまり、「消えないキャンドル」、バートン家の誰かのアイデアでいたづらにこの「消えないキャンドル」を私の誕生日のために用意したのだ。

皆、ケーキを食べたり、歓談したりしながら、最後は末っ子レスリーの弾くピアノと私のギターで演奏したり歌ったりした。バートン・パパも飛び入りでバンジョーを披露した。こうして、生まれて初めての誕生会を味わうことができた。

一週間のスポケーン滞在中にYMCAの理事をやっていたハンナさんから提案があった。私たちBグループとそのホストファミリーが全員ハンナさんの家に集まった。ハンナさんの家のバックヤードにはきれいなプールがあり、そこでホームメイドのアイスクリーム・パーティーを開いてくれたのだ。
8月が誕生月だった竹内順子さんと私のバースデーパーティーを兼ねたものだった。そして、同じ週にもう一度、今度はYMCAのキャンプで祝ってもらうことになった。一週間で三度も誕生日のお祝いをしてもらうことになった。初めての体験が一気に三度も味わえることになったのである。

4週間の研修日程をすべて終え、帰途のパンナムの飛行機に乗っていた。当時は接客と言えばスチュワーデスだと思っていたが、背の高い男のキャビン・アテンダントがやってきた。私は英会話の練習のためどこでも誰でも話した。やってきた背の高いスチュワードと目が合ったので彼と話をすることになった。

自分たちはYMCAの語学研修のメンバーで、四週間どんなことをしていたのか、彼に話した。もちろん、生まれて初めての体験である誕生会の様子なども話した。ニコニコしながら話を聞いていたチーフ・スチュワードのライトさんは「少し、待ってて」と言い残し、ファーストクラスの方へ姿を消した。

しばらくするとファーストクラスのカーテンが開きライトさんがケーキを持って現れた。キャンドルは付いてなかったが、小さなバースデーケーキを私のトレーに置くと大きな声で「ハッピー・バースデー」と歌いだした。それに連れられ周囲の人も皆、合唱してくれた。歌が終わるとライトさんが私に向い笑顔で言った。「お誕生日、おめでとう。これで4度目だね」

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2009年07月06日

俺は「犬型」、猫は大嫌い!

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    友人のブルースが飼っていた猫

猫好きの人には済まないが、私は猫が苦手である。どちらかと言えば嫌いである。もっと言うと大嫌いだ。

何がそんなに気に食わないのかというと猫は愛想が無いと感じてしまうからだ。少なくとも犬とはかけ離れた性格であるということは言えると思う。犬好き猫嫌いな連中はだいたい同じような理由によるものである。

ウェスタンワシントン大学時代、ブルースの家(と言っても借り住宅)に短い期間世話になったことがあるが、このブルースが猫を飼っていたのである。間借りしている分際で好き嫌い言う訳にもいかず我慢して一緒に住んでいた。

私が呼んでも来た例の無い猫が鮭入りのおにぎりを作っているとき「猫撫で声」を上げて近寄ってくるのだ。普段愛想がまったく無い猫がである。全然、可愛いところがないので「あっち行け」としっしっと追いやるのだが、すぐにまた近寄ってくるのだ。

犬はこちらの態度に応対して、主人と一心同体というところがあるが、どうも猫にはそれを感じないのである。その当時は付き合いにくい女と同じだと思っていた。我がままで自分勝手なところは似た者同士だと考えていた。道理で女のことを「プッシー」と呼ぶのも頷ける。

私は特に「メール・ショヴィニスト」(Male chauvinist)では無いが、そう感じざるをえない場面も多く感じてきた。今ではかなり我慢強くなったが、女性の自己中心的な意見を聞くと爆発寸前の時は随分経験した。

女性憎しから猫嫌いになった訳では決してないが、あの無愛想な猫が我儘に擦り寄って来るのがどうしても好きになれないのだ。やはり俺は「犬型」だと自分でそう思う。



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2009年06月17日

日系人の劣等感と日本滞在

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      美人弁護士、日系米人のスーザン

アメリカ留学時代、ボッソル高校には少なかった日系人だが、大学に入ると何人かの日系アメリカ人の友達ができた。

社会学を勉強すれば分かるが、アメリカでは居住地区によって集まっている人種が異なることは少なくない。むしろそれが当たり前なのである。アングロサクソンが多く住む地区、スカンジナビアンの多い地区、日系人や黒人の多く住む地区などである。

私が留学したボッソル高校があるボッソル市や住んでいたカークランドは白人の多い地域であり、従って黒人やアジア系は少なかった。通常どの都市でも北部は白人系、南部は黒人やアジア、或いはヒスパニックが多い傾向が見られる。

さて、知り合った日系人の多くはすでに三世が多かった。つまり祖父母、あるは祖父母のどちらかが日本人である。三世になるとすでにアメリカ人である。日本語は本当に片言しか話せない者も少なくない。

自分のルールである日本人の血が混ざっている訳だから当然日本や日本文化に対しても興味を持つ。時代は今のような人、物、金が国境を越えて自由に飛びまわれる今とは違う。まだ、国境を越えて他国へ行くというのは難しい時代だった。

何人かの日系人の友人が日本へ留学した。しかし、彼たちが体験した日本での暮らしは全員が楽しんだ訳では無かった。一番多く聞いたのは日本語ができない日本人という扱いだった。日系人たちは日本語を勉強したいと思い、親日的気持ちで行ったのに日本語ができない日本人という奇妙な扱いを受けたと多くの友から聞いた。

英語で押し通すという手もあったのかも知れないが、今とは時代が違う。白人ならいざ知らず日系というだけで「できるのが当たり前」の立場に立たされてしまった訳だ。これが白人だと「できなくて当たり前」の扱いを受ける訳だ。

通常の暮らしで「○○系」を意識しなくても暮せるアメリカとそうでない日本の距離感に失望した日系アメリカ人も多かった。

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2009年04月10日

幸一が行った日本人留学生対象の実験

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    心理学専攻の幸一

ウェスタンワシントン大学時代に神戸からやってきた留学生幸一と出会った。私はすでに在米6年になっていたが彼はまだ来たばかりだった。彼の専攻は心理学だった。

ある時幸一が手伝って欲しいとアンケートを持ってきた。聞く所、心理学の宿題らしく彼はテーマに「日本人留学生の言語」について実験を行っているとのことだった。

つまり日本人留学生たちが「考える」作業を行う時どの程度「日本語」と「英語」で行っているのか、あるいはどの程度理解力があるのか、そのようなことを調べる実験だと解かった。

私も興味があったので快くアンケートに応じた。幸一は少なくとも二十人近くの日本人からアンケートに協力してもらい論文を書いたようだ。

数ヶ月のち幸一と会った時にその事を聞いてみた。結果はだいたい彼が予想していた通りだと話した。私を除く他の日本人留学生は日本語の読解力が優れており英語の読解力が劣っていたとのことだった。不思議に思ったので私は自分の結果を知りたがった。

すると幸一は言った。同じアンケートでも私だけ英語の読解力が勝っており他と比べて日本語の読解力がやや低いという結果だったらしい。17歳で留学していたのでその結果には驚かなかった。

私は自分でも英語で話をしている自分が好きだった。違う言語を話すと人格も変わるものである。現在はどれにタイ語も混ざっているので尚更である。こうして、いろんな出会いの元、いろんなキャラクターが混在している自分と付き合うことになった。

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2009年02月19日

香港経由の一時帰国−35年前の香港

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    35年前の啓徳空港の周辺

シアトル郊外のボッソル高校を無事卒業し、ルイジノの家に引っ越した夏休み、日本へ一時帰国することになった。卒業報告の凱旋帰国となるはずだった。

夏休みにやっと運転免許を取り愛車マスタングも手に入れ(勿論中古だが真新しいトップが電動で開くコンバーチブルであった。)ルイジノに送られシアトルを後にした。

当時、正規料金は高かったが日本では買えないチャーターの格安航空券がアメリカでは購入できた。しかし、当然ルートは限られていた。私が買ったチャーターはシアトルから何と香港経由で日本に帰るというもの。

こっちは夏休みである。別に急ぐ旅ではない。格安切符で安くなった分で香港に立ち寄ることが出来るのだ。ただで旅行する感覚である。今から35年前である。写真を見ても分かる通り、まだ拓けていない香港だった。

一泊はまともなホテルに泊まった。リージェントホテルの隣にできた新しい新世界(ニューワールド)というエコノミーのホテルだった。サービス券が付いていて最上階のレストランバーから見る香港島の夜景は一人で見るのはもったいないくらい綺麗だった。彼女と一緒だったら最高に素敵だろうと思いながらグラスを傾けていた。

翌日のフライトはキャンセル待ちだった。空港に着くなりカウンターへ申し込んだが、直前まで分からないと言われ、仕方なく空港ロビーを散策した。まさか、これが数年後、ユニーツアーズのガイドで毎月来ることになる空港だとはこの時は予想もしていなかった。

空港バーで「コーヒー・ナッジ」を注文すると若手のバーテンダーが作り方を知らない。教えてあげると気の利いた奴でコーヒー代しか取らなかった。まだ見習いらしかった。こちらが金の無い学生だと知って気遣ってくれたのだった。

時間になりカウンターに戻ると「今日は満席で席が取れないので明日の同じ時間に来るように」と残酷な宣告を受けた。二泊する予算なんか持ってないよ。当時はクレジットカードも無かった。現金しか頼りにならないが、その現金が無いのだ。一泊分の予算は前の晩に遣ったしまった。

仕方なくその晩は空港で寝ることにした。

土産屋の香港人のお姉さんたちと知り合い、うまくすれば彼女の家に泊めてもらえるかと思っていたら甘かった。当たり前だ。香港の住居は日本よりはるかに狭い。そこに家族で雑魚寝して暮らしているのだ。私を泊めてくれる場所などない。

何人か知り合った土産屋の姉さんたち、私が空港で一泊しなければならないと知ると、一番休める場所を教えてくれた。ところが深夜になると空港ロビーの清掃員が入りローラーを掛ける音が煩く寝ていられなかった。

翌日、願いが叶いやっとのことでキャンセルの座席が取れ日本に帰国できた。羽田から実家のあるM駅まで電車で帰った。M駅に着き迎えに来てもらおうと電話を掛けた。待っている間に所持金を数えてびっくりした。手には40円しか残っていなかった。

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2009年02月04日

初めてユダヤ人を認識した日

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        初めてユダヤ人だと名乗ったジョン

留学のため渡米してウェスタンワシントン大学でジョンに出会うまで私は「ジュー」、ユダヤ人という言葉を聞いたことがなかった。多くの友達と出会ったがこのサンフランシスコから来たジョンとの出会いはその後の私の人生に大きな影響を与えることになった。

何しろ私が住んでいたワシントン州にしろオレゴンやカリフォルニアは人種の坩堝と言われるほど多様な人種が住んでいてあまり極端な人種差別は少ない。もっとも社会学から言えば「自然な住居区別」が上手に作用しているという見方もできなくはないが、兎に角ユダヤ人ということで意識したのはジョンが自らそう自己紹介したからである。

初めて私の部屋に遊びに来た時、ジョンはこう言った。「ラッキー、俺はジューなんだ。」何しろ初めて聞いた言葉「ジュー」だったので、私は「それで?」としか返答できなかった。

その後、大学を卒業し、在留できずに仕方なく日本へ帰国した私だが、このジョンの言葉の意味は帰国後知ることになる。私が専属ツアーコンダクターとして勤めたユニツアーズの客層は90%がユダヤ人だったのである。

その後、ユダヤ人に興味を持って随分たくさんの本を読んだ。名前の由来などが分かってくるとそれまでアメリカで付き合ったり習った教授など、ユダヤ系であることを知ることができたのである。ショーラインの短大時代のマイラーバーグ、ウェスタンワシントン大のローゼンバーグ、ボッソル高校の家庭科のショーンバーガー、一級年下のモーリー・バーガー、ローリー・ホフマン、そしてこのジョン・ホーンシュタイン。数えれば霧が無いほど周りにユダヤ系の友達がいたのである。

しかし、それほど「ジュー」という言葉は聞かなかった。つまり、ある意味、「禁句」になっていたのだと思う。そう考えるのが自然である。何故、それほどまでに耳にすることが無かったのであろうか。謎というよりそこにアメリカの体質が現れていると捕らえるべきであろう。

断っておくが私はアンチ・ユダヤではない。むしろ、彼等の伝統とその民族の存続意識に敬意を払っている。歴史上の最大の奇跡と言っても過言ではない。日本やドイツの戦後の復興がよく「奇跡」と称されることがあるが、ユダヤ人の民族存続の方が5倍も10倍もそれを上回っていると思う。

結構ユダヤ人は私の業界では有名だった。それも「口うるさい嫌な客として」である。私はユダヤのお客さんは好きだった。とても楽しかった。社長がパンフレットの小さな文字で書かれた約款をよく読んでおくように言った意味がそれで分かった。何故ならずば抜けて頭のいいユダヤ人のお客を案内して一緒に行動するのが仕事なのだから。

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2008年12月29日

資本主義の原理を僅か2時間のセミナーで教えるドレイク教授

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    ウェスタンワシントン大学のキャンパス

ウェスタンワシントン大学の社会学部を専攻していた私は最終年度に素晴らしい教授と出会った。教授の名前はDr.ドレイク。教授は何故か特別に私を可愛がってくれた。

私が受けたのは教授の「Voluntary Association」という授業だったが、学生は僅か8人と少なくそれだけ教授との距離も近く、それだけ身近に教授と接することができた。

授業の内容はともかく、今日はドレイク教授が行ったセミナーについて書いてみたい。セミナーのタイトルは忘れてしまったが、内容がとんでもない素晴らしいものだった。

セミナーは昼間の授業の時間ではなく夜行われた。W.ワシントンのキャンパスにあるミーティングホールに集まった学生は約80人。2時間のセミナーだった。

会場の入り口でポーカーゲームで使われる色が付いたチップを25枚もらった。赤、青、黄色、白、緑のチップを手にした学生を前にDr.ドレイクが言った。「OK、では始めましょう。全員、相手は誰とでもいいです。手に持っているチップをお互いに1枚づつ交換してください。」

会場はまだ静かだった。誰も何が目的なのか皆目検討もつかなかった。このチップ1枚交換を二、三度したのち、ドレイク教授は次のタスクにかかった。「今度は赤1枚に付き青2枚、青1枚に付き黄色2枚、黄色1枚に付き白2枚、白1枚に付き緑2枚、全員誰かと交換してください。」

交換比率は別問題でこのような交換ゲームを数度繰り替えすと今度は手持ちの色でグループ化した。赤を4枚以上持っているグループ、赤が3枚のグループ、赤が2枚のグループ・・というようにである。

そして、そのグループ化した「特権」赤グループに毎回行われる交換ゲームのルール変更を認めたのである。すると何が起こったか?毎回行われる交換のルールが彼等に都合のよい方へ決められたのである。

私は残念ながら一番価値の低い緑グループに属していた。これを見てDr.ドレイクの意図を察した私は緑グループから一人、ルールを決めている赤グループに我々の代表として送り込む画策をする。選んだのは中国人の女の留学生だった。

「よし、これで我々緑グループも代表を送ったのだから少しは有利になるであろう。」との思いは完全に崩壊した、その後、一度、二度、交換ゲームのルールは益々我々に厳しくなるばかりなのだ。「あの、チャイニーズに裏切られた。」そう思った熱血漢の私はグループの皆に言った。「よし、こうなったら、チップを俺に集めてくれ。俺が代表になってルールをフェアー(公平)なものに変える!」

熱い思いで赤グループに乗り込んでいった。何とかして仲間を少しでも救いたい、その様な思いで連中の中に入る。初めてのルール改正に乗り出した訳だ。そして、新入りの仲間として最新のルール作りの仲間に加わった訳だ。勿論、そこには前に送り出した中国人留学生もいた。

私は思い切って貧乏緑グループの救済を申し出ると、そこにはすでにあるルールが決められていた。それは何とこのグループの利益に反する行為は禁止されていたのだ。

ゲームはここで終わった。Dr.ドレイクは学生に感想を聞いた。真っ先に手を上げた私を見た教授は私を指した。私は立ち上がって言って。「教授、このゲームは素晴らしいゲームだ。これで資本主義のメカニズムを全て表してしまった。富の集まるところに権力が発生し、そしてルールを決めていく。このルールの決定権が更に富を集めていく。民主主義とはイデオロギー(空想)であって実社会は資本主義という名の富の集中が世の中を動かしているのである。」

こんな素晴らしい教授に出会えたのは最高に幸運である。だが、世の中に偶然はない。私が子供の頃から探していたので教授に出会うことができたのである。必然である。昨日、紹介した鬼塚英昭氏の「八百長恐慌」を是非一読お勧めする。

金持ち連中は次々と自分たちの都合の良いルール改正を行ってきたのである。そして、それは今ほど複雑になったことはないはずだ。それは歴史が物語っている。


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2008年10月01日

続編 アイリーンとの初夜−初めてのボディースーツ

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    キッチンで写真を撮るアイリーン

ルームメイトのランディーがバイトで留守の間、アイリーンからの突然の誘いで彼女の家に赴いた私だったがアイリーンの意図が掴めず頭は真っ白だった。マッサージをしてくれると言うので仰向けになるとアイリーンはミニのジーンズで立ったまま私の身体を跨いだ。

跨いだアイリーンの足の奥には純白のパンティーが見えた。ここまで彼女がジェスチャーで示しているのに動転してしまった私は急用があるとか言い訳をして愛車オンボロワーゲンで帰ってしまったことは昨日書いた。

寮の部屋に戻ってからも私の鼓動は収まらなかった。そして、翌日アイリーンの家でパーティーがあるというので寮の友達を乗せられるだけ乗せて、(あの小さなヴォルクスワーゲンにアメリカ人が5人は乗っていた記憶がある)アイリーンの家に向かった。

彼女の家にはすでに多くのゲストが来ていた。当時流行りのシアトル出身のハートをかけながら皆ビールを片手に談話していた。私はアメリカスタイルのパーティーが大好きだった。皆、立ったまま談笑し、ぐるぐる移動しながら多くの仲間と話をするのである。日本人やアジア人たちはこういうパーティーの場でもソファに座ったりカーペットに円陣を組んで座ってしまう習性があり、あまり欧米文化に溶け込まない者も多くいたが幸い高校時代からシアトルで生活していたので、私は当然そのような文化の違いに慣れていた。

深夜0時近くになりぼつぼつと帰り始めるゲストもいた。大勢の仲間がいるところで突然アイリーンが言った。「今日はラッキーはここに泊まっていくのよ!」またまた心臓爆発である。しかし、ビールとマリちゃんのお蔭で前日のような動揺は無かった。私はアイリーンの気持ちが分かったので、寮から乗せてきた友達に自分の車のキーを渡すと「俺はここに泊まるからみんな乗って帰ってくれ。」と言った。やがて一緒に来た友達は帰っていった。

車のキーを渡して気持ちが落ち着くとすっかり酔っ払ってリサの部屋で寝てしまった。どれくらい眠っていたのか分からないが、一眠りから目が覚めると再びパーティーに参加した。すでに多くのゲストは帰った後だった。

午前も二時近くになった頃であろうかアイリーンが「私はもう休むわ」と言い自分の部屋から毛布を持ち出してきた。それが合図となり全員帰路についた。ルームメイトのランディーとリサは自分の部屋に入った。
私はアイリーンとソファで寝ることになった。「Lucky, I want you to want me」(チープ・トリックに同名の歌がありました)アイリーンはそう言うと自分の唇を私の唇に重ねてきました。濃厚なキスをしながら私は手をアイリーンの背中に回しましたが無いのです。何がって?ブラジャーですよ。ブラジャーが無いのです。アイリーンはボディースーツを着ていたのです。当時、そんなものの存在など知らず当然ですがボディースーツなる物の構造も知りませんでした。

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私が困惑しているのを悟ったアイリーンは自分からクロッチのホックを外しました。そして、そのまま私を彼女の中に導いたのです。まだ、若かった私はあっという間に彼女の中で果ててしまいました。


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2008年09月30日

アイリーンとの初夜−びっくり仰天

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    仮面のアイリーン

ルームメイトのランディーと共に学生寮を出たアイリーンは大学から2kmほど離れたABCストリートに一軒屋を借りて住みだした。彼女たちは良く友達を呼んでパーティーを主催していた。

私は金髪でグリーンの瞳のアイリッシュ系のアイリーンと仲が良かったがまさかガールフレンドになるとはこれっぽっちも思っていなかった。

確か、あれは土曜日で休みの日だったと思う。寮の自室で休んでいると突然部屋の電話が鳴った。電話はアイリーンからであった。「ラッキー、何してるの?遊びに来ない?」

私は大好きなアイリーンからの誘いなので二つ返事でOKし、愛車ボロクソワーゲンに乗りアイリーンの家に向かった。車を運転しながら、初めて個人的に誘われた理由を考えていた。訳は分からなかったがそんなことはどうでも良かった。兎に角、魅力的なアイリーンからの誘いだ。

家に着くとドアをノックした。可愛らしいブラウスにミニのジーンズでアイリーンは出てきた。ドアを開けざまに「Lucky,ask me a kiss!」と言われ一瞬、解釈に戸惑った。どういう意味だ?ん、まさか?本当にそれで良いのか?自分で理解した彼女の言葉に動揺した。しかし、彼女の目を見ると私の理解が正しいのが分かった。

私は彼女に唇を近づけた。長い接吻だった。そして抱擁しながら部屋に入った。心臓がどきどきしていたが、何とか落ち着きを取り戻した。

するとアイリーンはマッサージしてくれとせがんできた。私はマッサージは得意だったので気持ちよく引き受けた。アイリーンの白く綺麗な肌を優しくもんであげた。

彼女のマッサージが終わるとアイリーンは交代して私にマッサージをするという。うつ伏せになると彼女の手は私がしたように同じようにマッサージをした。しばらくするとアイリーンが言った。今度は仰向けよ。

私が寝返りをうって仰向けになると驚いたことにアイリーンはミニのジーンズのまま私を跨いで立っていたのだ。彼女の真っ白いパンティーが目に飛び込んできた。私の心臓は破裂寸前だった。

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アイリーンが言った。「今日はランディーはバイトで3時過ぎまで帰って来ないの。」もちろんその意味は理解したが、心の準備が出来ていなかった。このままの流れは不味い!(本当は不味くはないのだが、というより望んでいたのだが、不意打ちだった)私の心と頭は完全に真っ白だった。

慌てて起き上がり、アイリーンに用事があると告げ、愛車オンボロワーゲンに乗り込み帰ってしまった。(続く)

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2008年09月13日

リタの自殺未遂

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    ボーイフレンドに虐待されるリタ

ワシントン大学に入学すると近くの一軒家の地下の部屋を下宿とした。大家のジムは夏はシアトル、冬はハワイという理想の暮らしをしていた。入居したときは大家であるジム夫妻とはよく話をしたが秋になると何時の間にか夫妻はハワイに移っていた。

留守の半年の間は賃貸にして貸し出すのである。そこに入ってきたのは大学生ではなかった。ラリーと言う名の男はブルーカラーでダウンタウンで働いていた。

ラリーにはクリフという兄がいてガールフレンドのリタを連れてよく遊びに来ていた。以前にも書いたがワシントン大学で友達ができなかったせいもあり、私はこの兄弟と仲良くなった。

リタは幼い頃両親と離別し、孤児院で育っていた。心に影を持った子だった。クリフはそんなリタを虐めるのが好きだった。彼女が他に行く当てがないというのを知り尽くした行動だった。

奇妙な関係だとは知っているつもりだったが、アメリカでは奇妙な連中に会うのは慣れていた。

ある晩、突然電話が鳴った。出てみるとリタだった。「ラッキー、クリフが私を捨てて別な女と出かけたの!」「私、狂いそうよ。ちょっと来て!」いきなりそう言われても、私には何も関係ない。まして翌日は心理学の試験が控えていた。

そう言って一度は電話を切った。だが数分もたたずに再び電話が鳴る。受話器の向うで皿を投げる音が聞こえた。「分かった」そう言うと愛車ヴォルクスワーゲンに乗りクリフの家に向かった。

ノックをしても返事がない。仕方がないのでそのままドアのノブを回す。中へ入ると目に入ってきたのはナイフを喉に突きつけたリタの姿だった。

「リタ、何をしてるんだい。そんなこと駄目じゃないか。ナイフを置きなさい。」優しく言いながらリタに近寄った。目は真っ赤に腫れ上がっていた。

一緒に行った飲み屋でクリフは別な女に入れ込みリタをアパートに帰してそのまま二人で出かけて行ってしまったそうだ。また、クリフのリタ虐めが始まったと私は呆れた。

リタは今までその虐めに一人で耐えてきたのだ。だが、今回は違った。私と知り合ったので「助け」になると判断したのだろう。そしてクリフに対してもできる限りの仕返しをしたかったのだろう。

「ラッキー、私をあなたの部屋に連れて行って」突然、訳の分からぬ注文に驚いた私だが、リタが再びナイフを手にしたので、連れて出た。断っておくが、私は別にリタに対して下心を持っていた訳ではない。タイプでもない。

私の小さな部屋にリタを入れるとソファに掛けさせ向かい合って座った。ステレオをかけビールを出す。もう試験勉強などどこかへぶっ飛んでいた。

深夜近くになり突然ドアをノックされた。「ラッキー、リタはいるかい?」声の主は思った通りクリフだった。かなり酔っ払っていた。ドアを開けるとソファに座ったリタを見て安心したようだった。

クリフはリタを虐めることによって性的快感を得ていたのだ。そして、リタもまた虐められることでクリフを満足させられると悟っていたのだ。

私がクリフにビールを勧めるとそれを飲み干し二人で部屋を出て行った。部屋に残った私には疲れだけが残されていた。

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       マゾッ気があるリタ


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posted by ラッキー at 12:04| バンコク ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月02日

二階のおばあさんのベランダの花はゲロまみれ

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    いつも一緒のエイミーとジュリー

ボッセル高校時代にチアガールのマーラの膝にゲロを吐いて一躍有名になった私だったがウェスタンでもゲロの武勇伝がある。
ウェスタンワシントン大学に入学したが学生寮は隣接するフェアーヘヴンというカレッジの寮に入居した。そこの寮は8棟あり、私は6棟に部屋をもらった。第一棟はフェアーヘヴンに通う高齢者が多く入居していた。

連日パーティーが誰かの部屋で行われていたが、それは第一棟の四階に住むジョージの部屋で行われたパーティーで起こった。ジョージは老人棟に住む数少ない学生で他州から来た学生だった。アメリカ映画に出てくるようなヤンキーな好青年だった。

二日酔いで学生食堂に行くとジョージが笑いながら私を迎えた。「ラッキー、夕べは豪快だったな!」何のことだか分からずジョージに聞くと「何だ、覚えていないのか?」と言ってまた笑いだした。

ジョージはテーブルに座る皆に向かって話し出した。「朝、起きてベランダに出ると二階のミセス・ウォルトマンの声が聞こえてきたので顔を出し下を覗くと彼女のベランダの花がゲロまみれになってたんだ。」ジョージは続けた。「ミセス・ウォルトマンの声が聞こえてきて、ふ〜む、何かしらねえ、このドロドロしたものは?夕べのラッキーのゲロさ!!」テーブルの学生は大笑いした。私は二日酔いで赤面するどころではなかった。まだ蒼白な顔をしていた。

もちろんそれで懲りるような私ではない。その後も連日パーティーを繰り返していた。

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    この高さから豪快にゲロを吐く

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posted by ラッキー at 17:03| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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