2015年11月05日

毎朝、飼牛に干し草を与える日課


【11/05】すっぽん小町

【11/05】wpXレンタルサーバー

【11/05】航空券徹底比較『スカイスキャナー』

【11/05】旅の指さし会話帳を国名で探す



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  ロイヤル・ガーデンで見た干し草で思い出が蘇ってきた

若干17歳で単独渡米し、シアトル郊外にあるボッセル高校に転校したのが1973年の春であった。高校3年に進学はしたが、四月の半分は学校に行っていない。自分の足で東京までビザの取得のため、通っていたためである。

当時はネットなど無い40年も前のこと。自分で聞いたりして、どこでどうすれば良いのか調べたのだ。断っておくが、その頃は留学の手続きなどしたことのある旅行代理店など地方都市では無かったのである。

忘れもしない、帝国ホテル内にあった藤田観光の事務所に出向き、いろいろ聞いたら、アメリカ大使館に行って自分で申請できると教えてもらった。勿論、それなりの料金を払えば、代理店として藤田観光でもやってくれるのは、当然のように言われた。

だが、私は自分で取得することを選んだ。理由は私に続く後続組が現れた場合、教えてあげることができると思ったからだ。

そんなこんなで、単独の渡米を決めたのが、その年翌月の5月5日、こどもの日。未だにずっと私の個人的「記念日」である。

真直ぐ呼ばれたワード家へは行かずに、ロスアンゼルスのコリーンの家を訪ね、その後サンフランの安蔵さんを訪ね、サンフランから飛んでバンクーバーのキャロリンに会いに行った。バンクーバーからグレイハウンドのバスで国境を越えてシアトルに入るとダウンタウンのグレイハウンド乗り場にワード家が出迎えに来ていた。

今、一瞬であるが、その時の様子が脳裏をかすめた。もう、42年も前の記憶である。私の体の一部に記憶が残っていたのだろう。実際、ワード家は「恩人」ではあるが、相性は最悪のものだった。

パタヤで見た干し草ですぐに当時を思い出すことができるのは、「干し草」がすでに「キーワード」として頭に打ち込まれているからだ。

何しろ地方都市の中心部、老舗の割烹料亭の次男として生まれた私は農家の暮らしなど見当もつかない。勿論、その家に一年前ホースステイしたことはあったが、「一週間」のゲストと「住む」ことになる留学とでは全然話は違った。

そのワード家では、でかい敷地に馬一頭と飼牛10数頭いたのだが、学校へ登校する前に飼牛に与える干し草の登板は息子のトムと私の交代制であった。

ずるいトムに嫌がらせをされ、何度も彼の当番の代わりをやらされた。ユニフォームが無い自由服の学校なので、通学には普通のシャツしか持っていっていなかった私は、朝起きてシャツとズボンに履き替えてから、農作業となる。

作業が終わると、干し草がきれいなシャツにこびりついていた。「これはえらい所に越してしまったなあ」というのが、正直、素直な気持ちだった。















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2015年08月01日

目指すぞ二度目の世界一周

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  カリフォルニア州パームスプリングのデザート・スプリング

トム・クルーズ主演の最新作、ミッション・インポッシブルの冒頭の部分でウィーンのコンサートホールでオペラハウスが出てきたのです。それからシーンは飛んでロンドンへ。

詳しい評論は映画のサイトに譲ることにして、私は大のMIファンですが、中々最高の出来だと思いました。絶対にお金を払って見るに値する価値の映画だと思いました。今日見たばかりなのにもう一度見たいです。次回は絶対に英語で見たいですね。今日は残念ながらタイ語でしたので、ほとんど会話の内容は掴めておりません。

でも、不思議なことにタイ語で聞いていても、場面場面で英語ならどんな会話になっているか想像ができるのは若干ですがタイ語のヒアリングが少しずつ身に付いてきたのでしょう。

私は人生最後の場所として、この田舎に越してきたはずですが、諸般の事情でどうしても此処から脱出したくなり、ある事に賭けることにしたのです。

そして、もっと大事な事に自分の中に良い意味での「欲」が出てきたのです。私はずっと欲を鎮める道を探ってきました。そして、それが此処まで導いてきたのですが、ここからUターンではなく、また、路線変更でもなく、完全なるジャンプを目指そうと思い直したのです。

そして、今日の映画のシーンを見ていて、20歳の時、世界一周をしたことを思い出し、まだやり残していることと、もう一度是非やりたい事への「欲」が芽生えてきたのです。大事な事はそれが成就するかどうかではなく、そこへ向かっていくプロセスを楽しめるかどうかなのです。意欲満々。サッコーン!





















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2015年06月29日

朝食は「ハムレット」

17歳の夏休み、YMCAの語学研修も終わり、ロスから羽田に向けた最後のフライトの中だった。

朝食のサービスが始まり、私は頭の中で自分がオーダーしたいメニューを反復していた。しかし、40日間の研修を終え帰路についているという安堵感も手伝っていたのかも知れない。

私はハム入りのオムレツを注文しようと思い、チーフ・アテンダントのスタンレーさんが来たので気軽るに声を掛けた。すでに彼とは仲良くなっていたので、気持ちは通っていた。

「What would you like to have ?」と聞かれた瞬間、私は「ハムレット」と答えてしまった。全く無意識であったが、その瞬間、スタンレーさんの返答は機転が利いていた。

「オー、シェークスピア!」と言ったのだ。最初の一瞬、私は何を言われているのか分からなかったが、すぐに自分の言い方が間違っていたことと、スタンレーがジョークで返したと理解できた。

この頃から私の中では英語のセンスは十分に輝き始まっていた。今でも英会話で話す自分が大好きである。

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2015年05月06日

留学先まで真っ直ぐ行かず

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   出会った当時、キャロリンはまだ中学生

昨日は42年前の子供の日が私の留学記念日だと書いた。真っ直ぐシアトルを目指さず前年にディズニーランドで知り合ったコリーンを尋ねてロスに立ち寄ったのだ。

迎えに来てくれる予定ではなく、空港から電話する約束だったが、コリーンは母親と妹と共に空港まで出向いてくれ、待っていてくれた。

事前に手紙でお祖母さんが来るので、私はソファに寝る予定だったが、お祖母さんの方がキャンセルとなり、一室貸してもらえた。

確か二泊くらい泊まらせてもらい、次の訪問地としたサンフランシスコへ飛ぶ。実は当時、航空券の値段は飛行距離で決まっており、その距離内ならどのセクターを飛んでも自由だった。

すでに当時から研究していたので、私はそれを知っていたので、東京−シアトルと飛ばずにその料金で東京−ロス−サンフランシスコと切符を買ったのである。

シスコには同郷の安蔵幸子さんがいた。彼女は高校卒業後、シスコの家庭でメイドとして雇われ私の渡米と同期だった。ロスからシスコの空港に着くと安蔵さんが雇い主のご主人と迎えに来てくれた。

シスコで数日過ごし、別途シスコ−バンクーバーのチケットを買い、日本で知り合い何度もデートしたキャロリンに会いに行くことにした。

実はキャロリンとの出会いは高校の学園祭。高一の時、三年の先輩がキャロリンとキャシーを連れて案内していたのだ。私は先輩の付き合っている人だと思わず、遠慮せずキャロリンに住所を聞いた。

当時、彼女は勝田市に住み、東京の学校(インターナショナル・スクール)に通っていた。

文通をしながら、彼女が家に帰ってくる度にデートを重ねていたのだが、私がYMCAの米国語学研修の旅から戻るとカナダへ越してしまったのだ。

つまり、キャロリンと会うのもそれ以来だったのだ。まだ17歳でろくに英語もできなかったが、度胸はあったのだろう。バンクーバーの空港からキャロリンの家までイエローキャブに乗り、住所を頼りに送ってもらった。

やっとの思いで到着したキャロリンの家だったが、残念ながら留守で誰も居なかった。17歳の坊主が遥か日本から一人でバンクーバーにやって来たのに、留守では仕方が無い。しかし、他に行く当てがある訳じゃない。

待っているより方法が無いので、キャロリンの家先に荷物を置き、芝生の上で待っていると隣家の子供がやってきた。

「何してるの?」とか会話になったに違いない。パターソン一家が戻るまで、その子の家で待つように招待してくれたのだ。本当に人間って素晴らしいよね。

しばし、待っているとやっとキャロリンと家族が戻って来た。嬉しかったねえ。そして、数日、バンクーバーを案内してもらい、そこからグレイハウンドのバスでシアトルへ向かった。

ワード家の両親と娘たちがバスステーションまで迎えに来てくれた。だが、ワード家のママは私がほうぼう友人を訪ねて歩いてからやって来たことを快く思っていなかった。つまり、最初からワード家での悲劇は決定していたのかも知れない。



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2015年05月05日

アメリカ留学記念日

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   祖父母も駅まで、親友たちは羽田空港で見送ってくれた

1973年5月5日、子供の日、県立高校3年になったばかりの私は全部、手続きを自分でやり、誘いがあったワシントン州カークランドのワード家にホームステイしながら、ボッセル高校に通うことになった。

出発の前日は学友共が泊まりに来て、皆で祝宴を挙げてくれた。その流れで、地元の駅から都内へ入り、モノレールで羽田国際空港まで一緒に行き見送ってくれた。

私はつくづく友に恵まれている。本当に心から神に感謝している。当時はまだ留学できる学生などほとんど居なくて、私の高校から留学したのは恐らく私が初めてだと思う。

普通なら焼きもちや妬みから、嫌味を言いそうな友人も一人くらいは居るだろうが、私の親友・友人たちにそういう小さな心を持った者は一人も居なかった。本当に気持ち良く送り出してくれた。

高校3年になったばかりの4月の半分は学校に行けなかった。(本当は行かなかった)何故なら、留学ビザの申請(パスポートは前年すでにYMCAの語学研修で取得済み)は藤田観光で聞いて自分でやったからである。

当然、藤田観光に頼めばやってもらえたが、それだと手数料を取られる。両親になるべく負担を掛けたくなかったのと、親友・友人たちが後続組となって留学する場合に手助けとなれるようにとの思いから、自分で大使館へ赴き自力で取得したのである。

アメリカの学校は9月が新学期なのは知っていた。つまり、5月に渡米しても高校2年に入るようになるのだ。日本ではすでに3年であるから、半年ほど遅れることになる。

そこで、高校に編入する前に私は真っ直ぐ目的地であるシアトルに飛ばず、ロスに行くことにした。ロスにはディズニーランドでバイトをしていたコリーンと友達になっていたからだ。

帰国してからコリーンと文通していた私は留学の折り、ロスに立ち寄るので数日間、泊めていただけないか?と聞いてみた。すると、コリーンから返ってきた返事はOKだった。

当時、まだ子供が一人で飛行機に乗って旅行しているような時代ではない。1973年である。ロスの空港に着いたら電話するように言われていたので、到着荷物のカーセルで荷物が出てくるのを待つ間に公衆電話からコリーンに電話することにした。

近くにあった公衆電話を受話機を取り、番号を廻しながらカーセルの方を見るとお母さんと見られる女性と若い娘二人が私の方を見て会話していた。

「ふ、待てよ」私は呼び出し音に返答が無い電話を置き、その女性たちの方へ向かって歩いて行った。「コ、コリーン?」と言うと先方も笑顔で頷いてハグしてくれた。

大人の女性はコリーンの母で若い方の子はコリーンの妹だった。私がコリーンと出会ったのは前述した通りディズニーランドだったが、コリーンの家はすぐ近くのオレンジカウンティーにあった。

お祖母さんが訪ねて来るので、私はソファに寝る約束だったが、それがキャンセルとなり、彼女が寝る予定だった部屋を用意してくれたベッドで眠ることができた。

米国留学、渡米第一日のことであった。(続く)



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2014年10月29日

「マイ・サバイ」は魔法の言葉

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   「マイサバイ」でこの通り

昨日はジェイクの二人の息子が保育園を休んだ。奥さんのトムが言うには風邪気味らしい。「マイ・サバイ」と言っていた。

この「マイ・サバイ」という言葉、実に便利にできている。ほとんどのタイ人が子供の頃から「マイ・サバイ」に毒されていると言ってよいだろう。

少しでも具合が悪いと「マイ・サバイ」と言えばお休みできるのだ。うちの子供も同じように、ちょっと調子が悪いと「マイ・サバイ」と言えば家内も義母も無理強いはしない。

私からみると「マイ・サバイ」という言葉が特権を持っていると思われてならない。まるで御上がお墨付きを与えているような言葉で、まず、「マイ・サバイ」と聞いてそれ以上突っ込む人はいない。

しかし、実態はと言えばマイ・サバイどころかサバイ・サバイな連中なのだ。学校をよく休む娘と甥であるが、調子が悪そうにしているのは朝のうちだけで、すぐに元気にサバイモードとなる。ずる休みとしか思えない。

近所の駄菓子屋の倅アーチーもよく学校を休むが「マイ・サバイ」が理由である。このように子供が育つのであるから、大きくなってもその癖が抜けないのは自明の理。

「マイ・サバイ」は麻薬のような物で多用していると、徐々に「怠け者」となって蝕まれていく。魔法の言葉「マイ・サバイ」は超便利なだけに使い方には十分な注意が必要なのである。サッコーン!



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2014年08月18日

対照的な二人の英国人

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   59歳の元ビジネスマンのポール

私がパンナニコム村で知り合った二人の英国人ポールとディーン。ポールについては何度もこのブログで取り上げたが、ディーンの方はあまり話題にならない。ディーンの生活は退屈極まりないからだ。

さて、この二人の英国人だが、すべてにおいて対照的なのである。ポールは現在59歳で元有能なビジネスオーナー。ディーンの方は53歳と若くゴミ焼却施設で働いていたというブルーカラー。

ポールと奥さん若い(30代)ソムの出会いはバンコクのタラート(市場)。知り合った後、国際電話で連絡を取り合い、二度、三度、と英国からバンコク訪問をして、ソムに押し切られ結婚してしまった。

一方、ディーンはというと、英国人妻と離婚歴があり、現在の内縁妻はタイ人女性でロンドンで知り合ったという。奥さんレントも50代でディーンより年上であり、英語も当然達者だ。

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   毎日、日課のようにビールを飲むディーン

タイ人の英語力はそれほど高くなく、レントは非常に正しい英語を話すことができる。彼女の話す英語を聞いているとタイ人とは思えないほどである。

どちらにも共通するのが、共にタイ人の奥さんの実家が此処パンナニコムにあり、どちらも此処に家を建てたことだ。すでに記したようにポールは豪邸を山の中に建て、ディーンは私の家のすぐ近所、国道22号線沿いにしっかりした(多分四部屋くらい)の住宅を建てた。

かつてパブオーナーだったポールはこちらに来てジャガイモ畑に精を出す毎日だが、ディーンの方は何する訳でもなく、毎日、近所のカントリーストアでビールを煽る。

ディーンは奥さんが英国で暮らしたこともあり、しっかりとした会話ができタイの情報にも詳しい。その上、ディーンにはタイ在住の英国人の知人も多く、彼等からいろんな失敗談を聞いて知っている。

反して、ポールは事前調査ゼロで自分の感性だけで行動を決しており、それが仇となってソムの素行を見破れないでいる。ある意味、ソムの手の平で踊らされている。

これほど対照的な組み合わせもないもんである。二人ともいい奴で、知り合えたのは幸運であるが、退屈なディーンに比べ、私はポールの方が好きである。だから、ポールには早く気付いて欲しいと思っているのだが・・・・。サッコーン!



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2014年07月14日

マリファナ合法時代

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   普通の民家(マイク夫妻)の地下を下宿先としていた

どんよりとした天気が続くサコンナコンである。曇った空を見ていたらシアトル留学時代を思い出した。

3月くらいまで同じようなどんよりとした冬が過ぎ、春から夏に掛けて本当に気持ちが良い。それまでの冬の沈んだ気分を吹き飛ばす晴天である。夏も暑いが高山のような気候で当時、同じ学校に通っていた亘さんが長野のようだと表現していた。

ボッソル高校を卒業した私はワード家を離れ、イタリア人の義兄弟ルイジノの家にお世話になり、そこからショーラインに通っていた。だが、一年を過ぎる頃から朝帰りが多くなり、レヴォグル家から出ることにした。

ショーライン・コミュニティー・カレッジの近所に留学生を受け入れる民家があり、マイクの家の地下に下宿することにした。

今、書いた通り、マイクはアメリカ人の学生ではなく、留学生を受け入れる方針だった。

地下には部屋が二部屋あり、台所も付いていた。日本から留学したいという親友の完くんにその部屋を紹介した。

それまでの留学生と違い、私はすでにアメリカ人の友達が多く、毎日のように友達がやってきた。

当時、マリファナは合法化されてはいなかったが、ハイになる習慣は高校生くらいから常識だった。それで、下宿に集まってはハイになっていたのだが、或る金曜日の晩、マイクは友人を集め、自宅でパーティーを開いていた。

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   ショーラインの仲間たち

地下では何時ものように我が親友たちが集まり、ハイになっている。すると、マリファナの煙が天井を伝わり、どうやら上の階のマイクたちの所に届いたようなのだ。おいらはすでにハイになっていて、そんなことに気付かない。

突然、上階からマイクの声がした。私が地下室の階段を上っていくと、ドアを開けたマイクの声がした。「ラッキー、すまんが、出て行ってくれ」。

静かで大人しい留学生を受け入れてきたマイクにとって、アメリカ人以上にアメリカ人のような私を受け入れたのは大きな誤算だったようだ。私はすぐに引っ越し先を探す羽目になった。(ワシントン州ではどうやらマリファナ喫煙が合法化されたようである。)サッコーン!


ワシントン州でマリファナ合法化


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2014年06月24日

アメリカのど田舎とタイのど田舎

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    シアトル郊外カークランドの半農のワード家

1970年代(1973年から1982年まで)にシアトル郊外にあるボッソル高校へ転校した当初、ホームステイ先だったワード家はカークランドのど田舎に住んでいた。

現在私が住んでいるタイ(サコンナコン県のパンナニコム村)の住居に非常に感じが似ていた。

ワード家の両親は私を気に入り、ボッソル高校へ転入できるよう校長に掛け合ってくれて私費留学の門を開けてくれた恩人である。しかし、住居は当時のアメリカでも中上流家庭ではなく、所謂ミドルクラス、中流の下の方の家庭であった。

親父はニューメキシコ州出身でゼネラル・エレクトリックの現場勤めのブルーカラー。おっかさんはパートタイマーで生活費を捻出する敬虔なバプティストであった。

母屋の平屋には三部屋有り、両親の寝室と二人の姉妹ボビー、キャシーの部屋となっていた。息子のトムが母屋の裏にある小屋に住んでいて、私はトムの部屋に同室とされた。

この小屋は前の年にYMCAのホームステイで案内されステイした部屋である。この小屋が非常に貧乏臭いのだが、あえてアメリカの農場に来たのだと自分を納得させていた。仮の宿と考えれば一週間のステイは「冒険」のようだった。

だが、留学となると一週間では済まない。一年間通してこの小屋に住むのは地獄だった。元々、長男のトムとは相性は良くなく、我慢の限界が来て、最後は高校で知り合ったルイジノ(イタリア人の兄弟)の所に転がり込むことになる。
  
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    昔ホームステイした時代が蘇る現在の田舎暮らし

現在、パンナニコムでの小屋生活もこれと非常に似ている。どちらの家庭もよく似ていて友人関係との付き合いを持たない。もっと正確に言うと経済的余裕が無い両家庭では付き合いができるほど資金が無いのである。

「家庭的」という表現がいろんな場所で使われるが、私が考えるに、そのような家庭は基本的に貧乏で金銭的ゆとりが無いから付き合い(近所、友達)ができないのだ。この二家庭はその模範とも言えよう。サッコーン!



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2014年05月25日

毎日が夏休み

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夏休み。好い響きではないか。「夏休み」と聞けば吉田拓郎を思い出すのは我々の世代では多いだろう。しかし、この大好きな「夏休み」に私は非常に困惑した感情も同時に抱いていた。

思い返せば、学校時代の特別なイベントを除き一番好きだった時期は何時の年代においても夏休みだった。

ところが、日本における夏休みの期間とあり方に注文があった。それは非常に短いのと宿題やその他の行事が余りに多いと感じられることだった。

大体、夏休みとは7月25日前後から八月一杯、31日までである。ワクワク、ウキウキしながら夏休みに入るのであるが、この一週間がやたらと早い。色んな制約が無くなり、ほっとしたのも束の間、この一週間が過ぎてしまうのだ。

そして、八月に入り、次の一週間も「光陰矢のごとし」、あっという間に二週目に入ってしまう。夏祭りだのお盆や高校野球など、気がつくとすでに8月も終わりが次第に近づいているのだ。

それに気づいてしまうと、せっかくの夏休みは地獄と化してしまうのが常だった。何故ならそれまで「休み」気分でいたので、宿題など全然手づかずだったからである。

終わりが近づいているのに気づいてしまうと、その後の残りの時間は楽しんだ記憶がない。他の兄弟たちは大体、宿題を片付けているので、夏休みを最後まで楽しんでいるようだった。だが、私だけは浮かない顔で最後のイベントである町内の盆踊りなどに出かけたものだ。

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これに反し、アメリカは違った。私は幸い、高校3年の時にアメリカの高校に転校する機会に恵まれた。そこで経験した夏休みは最高に素敵な、本物の夏休みだった。

何しろ6月末で学校が終わり、9月までたっぷり二カ月、夏休みなのだ。それでもって宿題という宿題が無い。何故なら学校は9月からが新学期で6月は学期末となり、全ての教科が終わっているからである。

で、夏休みの過ごし方は個人とその両親(家族)に委ねられることになる。流石は「自由の国・アメリカ」だと感心した。機械が好きな子供はエンジンをいじったり、小遣いを稼ぐアルバイトをしたり、時間の過ごし方はそれぞれ、自由に決められた。

家族旅行で出かけたり、YMCAやボーイスカウトのキャンプに参加したりと所謂「屋外授業」とも言える教育の場は幾らでも用意されていた。

そして、何より素晴らしいのは二カ月も休みがあると、大概の子供たちは学校が恋しくなってくるのだ。つまり、「早く学校に行きたいな」という気持ちで新学期を迎えることができるのだった。

このテーマは早60歳に手の届く年齢になった今でもずっと心に残っているものだった。こうして、猛暑のサコンの実家でパティオに座り、時折吹いてくる涼風に吹かれながら、夏休みを思い出すのであった。
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2014年01月02日

人口構成比の変化

三十年前、ウェスタンワシントン大で同期だったジョージタウン大から転校してきたマイクと話していた時、私が提唱したのがこの記事にあるような人口構成比と社会変化である。

高学歴で高収入になるほど、子供を生む数が減り、即ちWASPホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの数が減り、ヒスパニックや韓国、ベトナムなどを中心にアジア系の人口が相対的に増える、と。すると、選挙にも影響を及ぼす。当時、私が黒人の大統領の可能性を指摘するとマイクも驚き、頷いたものである。そして、それはオバマ大統領の出現で現実のものとなった。

アメリカにおける慰安婦銅像の設置問題などに分かるように、このような民族構成比の変化とアメリカという社会の変化に益々注意が必要な時代が到来したとも言えよう。

年は変わって2014年になった。この記事にあるように2020年と言えば6年後である。それはあっという間の時間軸である。

国民がしっかりとしたビジョンを持たないでいると、いつの間にか悪い方へ舵を取られて、気が付いたら「戦争」なる事態も想像に難くない、そんな気持ちで迎える正月である。


櫻井よしこ氏に聞く(上)「中華思想に凝り固まった中国が動きを活発化」
2014.1.2 07:00 (1/6ページ)[日中関係]
 東京で五輪が開催される2020(平成32)年には、日本と世界はどうなっているだろうか−。産経新聞の長期連載「2020年」に合わせ、ジャーナリストの櫻井よしこ氏に聞いた。

 −−東京五輪が開催される2020年。世界はどうなっていると思いますか

 「世界は様変わりしていると思いますよ。その特徴として戦後の日本の体制を支えてきた価値観がおよそ全て根幹から覆されていると思います。具体的にアメリカが内向きになっているということです。但し、これは必ずしもアメリカの衰退ではありません。よく『アメリカが衰退している』といわれますが、アメリカは十分に力を持っています。2020年のアメリカは、シェールガス革命でエネルギーの需給をほぼ達成できる見通しがついており、世界最大のエネルギー産出国としてエネルギー輸出国になっています。おそらく世界最大の軍事大国でもあり続けているでしょうし、世界最大の教育大国でもあるでしょう。大学にしても、若い世代の知的頭脳人口の流入にしても、技術水準においても、アメリカを凌駕(りょうが)する国はまだ生まれてはいないと思います。彼らが掲げる建国以来の民主主義に取って代わる価値観も生まれてはいないと思います」

 「でも、アメリカの人種構成は、いわゆるホワイト・アングロサクソン・プロテスタントが徐々に少数派になって、ヒスパニック、中国系、韓国系や、アフリカ系の人たちが比率として多数を占めるというふうに変化しています。するとアメリカの価値観も変わっていくことでしょう。プロテスタント、キリスト教の一神教と彼らの価値観、『自主独立』『自由』『民主主義』といったものをアメリカは今まで一生懸命に守ろうとしてきて、外に対してもそうした価値観を広げてきました。そのことが「価値観の押しつけ」とも受けとめられてきましたが、良きにつけ悪しきにつけそのようなことがなくなっていくと思います」


posted by ラッキー at 13:40| バンコク 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月07日

ポストベトナム時代と郷愁



思い出深い映画をユーチューブで見つけた。コメディーといえばコメディーなのだが、単なるコメディーでないことはご覧にねばお分かりいただけると思う。

最高なシーンは主人公が生まれ育ったオレゴン州のコミューンに立ち寄るシーンであろう。私は最初にこの映画を見た時、このシーンを見ながら涙が止まらなかったのを覚えている。

消去されてしまうかも知れないので、チャンスを思える方はどうかその前に是非ご覧いただきたい。心温まると共に、自分自身のこれからの生き方に影響を持たれる方もおられることだろう。
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2010年07月30日

教室が無い!シアトル高校の日々

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1973年の春、丁度5月5日の子供の日に当時、まだ国際空港が羽田だった頃、私は一人でシアトルに旅立ったのである。

正式な入学は9月の新学期まで待たねばならなかったが、ホストファミリーの息子トムと一緒にスクールバスで6月の学期末までオブザーバーの様な形で通学した。オブザーバーであるから、必須の学科はまだ無い訳である。従って、好きな見たいクラスに参加させてもらっていた。

いろいろ戸惑うことばかりだったが、日本と一番の違いは自分の教室が無かったことだ。日本なら自分の所属する組があり、教室で分けられていた。だが、アメリカのクラスというのは学年を指し、日本のような組には別れていない。

教室とは学科の先生が自分の教室を持っており、生徒が授業の時間に先生の教室に足を運ぶことになるのだ。

と、いうことで、朝スクールバスが学校に着いても、教室も座る椅子も無い訳だ。これは慣れてくると全然楽しく問題の無いことだが、最初は戸惑って行き場所が無く本当に困った。

高校は禁煙となっていたので、喫煙する生徒は学校のある通りの反対側の林の中が溜まり場だった。喫煙していたトムはだいたいここに毎朝、溜まっていた。私は一年間、喫煙嫌いで近寄るのも嫌いだったが、昼時、トムの居場所を探す時は決まってここに足を踏み込まねばならなかった。


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2010年07月17日

ワシントン大学のセックスの授業

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    マンモスなワシントン大学


ショーライン・コミュニティー・カレッジからシアトルにあるワシントン大学(University of Washington)へ進学したが、成績はさっぱりだった。

それまでのカレッジは友達も多く、本当にキャンパスライフは楽しいものだったが、ワシントン大学は競争のみの原理が働く、実につまらなく暗いものであった。

社会学を専攻していた私は必須単位の一つであるセックス学(Study of Human Sexology)を受講した。

500人は軽く入るようなセミナーホールは普段から受講者が少なく、コンサートホールのような場所で聞く授業は教授との距離感もあり、自然とやる気が起きなかった。

しかし、ある時、そのホールが満員に膨れ上がったのだ。一体、どうしたのか戸惑っていたが、授業で映画が披露されるとその理由がすぐに分かった。

その日の映画は「性」ではなく「セックス」そのものズバリだったのだ。男と女の性の違いからセックスに於ける悦びの役割など学問的内容だったが、若い学生には刺激的に映ったようだ。

気がつくと後ろに座っていた学生カップルがディープキスを始めていた。激しい喘ぎ声が聞こえてきた。映画も見たいし、カップルも気になる。こうなるとどっちを見て良いのやら分からない。

翌日の授業は元に戻り、講義に出た学生は五分の一程度だった。因みに私はこの授業の単位を落として、次ぎの学期に再受講することになった。


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2010年06月28日

国際混合チームとなった新設サッカー部

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    アメフトからサッカーに転向したヒロシ

私が編入したボッソル市立高校にはサッカー部が無かった。1974年、ベルギーからの転校生、後に私の義兄弟となる同じシニア(三年生)ルイジノがサッカー部を立ち上げるため行動を起こしていた。

ルイジノは父はベルギー人だが、母はイタリア人でサッカー少年だった。まず、三年生から声をかけ始め、それから二年生と徐々にメンバーを増やしていった。

ボッソル高校には海外からの留学生が何人かおり、ほとんど全員がサッカー部新設に参加した。

イタリア人ルイジノを始め、日本からの私、スウェーデン出身のハンツ、チリからのハヴィエル、チリからはマリオ、横浜からひろしと日欧南米を含める混合チームだった。ハヴィエルとマリオは当時ほとんど英語はできなかった。ひろしもまだ会話力を持っておらず、留学生で英語が話せるのはルイジノと私くらいだった。

コーチ(監督)はサッカーなど何も知らなかったMr.バスタッシュで、コーチを引き受けてからサッカー本を読み始めるという具合で、チームとして成り立つのかまったくの白紙だった。

ところが、地区大会の第一戦、何と勝利してしまったのだ。スコアは確か2−1だったと思う。私は初戦でアシストを演出した。

最高な滑り出しだったものの、その後は敗戦が続いた。ミーティングをやってもイタリアスタイルから南米スタイル、私のサイド攻撃など異論が噴出してなかなまとまらない。

それでも、前年度優勝校の対ニューポートの最終戦、予想を覆して何と我々が勝ってしまったのだ。この大番狂わせは学校新聞にも大きく載り、私のゴールとアシストは評判になった。

その後、母校のサッカー部がどうなったのか何も分からないが、ボッソル高校の同窓会などあれば、参加して聞いてみたいことである。
posted by ラッキー at 23:28| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月13日

あわや、事故死!奇跡的な生存

    10 jun 13.JPG 
    ショーライン時代の洋二さん

アメリカ留学時代の話である。まだショーライン・コミュニティー・カレッジに通っている時(今から約40年前)、下宿先であったマイクの家を追い出された。(過去ログ参照)

その後、ショーラインで知り合ったリックの購入した新築住宅へ越した。事件はその時に起こった。

鎌倉から留学されていた洋二さんから電話で呼び出された。誰か話し相手が欲しかった洋二さんが懇願するので、躊躇っていたがシアトルのダウンタウンにある彼のアパートまで出掛けることになった。

リックの住宅があるボッセルからダウンタウンまで、もっと正確に言うとチャイナタウンのある南ダウンタウンまで約一時間ほどのドライブになる。勿論、高速をぶっ飛ばしての話しである。

洋二さんは確かアメリカ人彼女と別れ話があり、振られてそれで話し相手が欲しかったようだ。そのように記憶している。

当然ながら、洋二さんはアパートで酒を飲んでいた。飲まなきゃ、いられねえよ。そんな心境であろう。そんなに長居するつもりはなかったので、私も薦められるビールを断りもせず、一緒に付き合って飲んでいた。

午前2時くらいだっただろうか、私は遅いので帰宅を申し出たが、洋二さんが引き留め、泊まっていくように言ってくれた。さらに二時間飲み続けた。

酔っ払って洋二さんの気持ちも落ち着いてきたようだった。午前3時過ぎ、私は帰ることにした。かなり酔っ払った状態だったのだろう。しかし、アメリカの事情は知っていたので運転に問題は無いと思っていた。

約一時間の運転である。ダウンタウンを出て、すぐ高速に乗り家に向って走り出した。リックの住宅は郊外の新興住宅である。田舎道を走っていた。私は走り慣れた道路で人も車もいない道路を飛ばしていた。

事故が起こったのはリックの家から数キロしか離れていない牧草地を走り抜ける道路だった。

ゆっくりと左カーブする道でそのカーブに入る10メートルも手前でハンドルを切ってしまったのだ。運転していた黒のヴォルクスワーゲンはディッチ(側溝)に足を取られ、勢いで一回転半して止まった。

フロントグラスは粉々に壊れ、車体は横転したまま止まった。ドアを上に上げ這い出したのだろう。奇跡だったのは、シートベルトのお陰かまったくの無傷。履いていたサンダルはどこかに行ってしまった。

素足でリックの家の方へ向い歩き出した。疲れに疲れていて、もうどうでも良かった。早く家に帰り寝たかったのだ。

しばらく歩いていると後ろからヘッドライトが光った。私は両手をヒッチハイクしようと両手を上げ、車を止めようとした。しかし、その必要はなかった。その車はパトカーだったのだ。

出てきたお巡査はパトカーの中に入るように言った。免許証の提示を求められたので、車の中だろうと、千鳥足で事故った愛車を方へ歩いていこうとするとお巡査に止められた。免許が無いので調書が書けない。自爆で無傷だったので、お巡査は処置に困った。

パトカーの後部座席に座った私は辺りが明るくなっているのに気付いた。とりあえず、リックとベッキーの家までパトカーが送ってくれることになった。

家に着くと、出てきたリックとベッキーに「後ほど、書類が届くと思うので、それに対処するように」と言い残し、パトカーは去った。

私は翌日、車を取りに行ってぞっとした。改めて正気で見るとフロントガラスはきれいに無くなっていて、車体はボコボコだった。死んでいてもおかしくないほどの自爆事故であった。


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2010年05月26日

銀婚記念が始めての海外旅行だった両親

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私がアメリカに留学中に両親が銀婚式を迎えた。それは後で聞いたことだったが、留学中にアメリカまで訪ねてきたのは家族では両親だけである。

兄も妹も弟もせっかく兄弟がアメリカにステイしていると言うのに誰も来なかった。何か理由があるのだろう。

それにしても両親が来るというので、一人でいろんなプランを考えた。留学を可能にしてくれた(仕送りなど)両親に感謝を込めてなるべく自分が体験した中で素晴らしいと思える同じ体験をして欲しかった。

同じ体験を通して、私自身の価値観を知って欲しかったという気持ちがあった。例えば、アメリカでのホームステイの素晴らしさなどである。

ところが、到着後、世話になるリックとベッキーの家に連れて行くと最初はご機嫌斜めであった。日本人特有の気疲れするというのだ。何故、ホテルを取らないのだと責められた。ガイド無しで言葉もできない両親がハワイでは日航からローカル線のコンチネンタルに乗り換えるという難しさもあったのだろう。

しかし、二人とも無事、ちゃんとシアトルに着いたではないか。案外、そんなものである。しかし、中年を過ぎていた両親はこのような大変な思いを予想していなかったようだ。私があまりにも簡単に言ってしまったからだ。

僅か二週間ではあったが、シアトルでのホームステイを皮切りに車でオレゴンコーストからサンフランまでのロングドライブ、そしてロスからベガス、最後はホノルルと十分満足いける西海岸の旅を案内したつもりだ。

後で言ってくれたが、最初は嫌がっていたホームステイもなかなか体験できないことをさせてもらったと喜んでくれた。

刺身と酒が頼りな父には必ず一日置きには和食か中華が食べられるようにした。いろんな食事を食べる習慣が無い父にはこれが最上級の手配だった。

最後のホノルルで食べた鉄火巻きと日本酒の味が忘れられない。


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2010年04月01日

ジェシー・リーの思い出

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    香港からの留学生ジェシー・リー

ボッソル高校を卒業した私はショーライン・コミュニティー・カレッジ(ジュニア・カレッジ)に進学した。

ストレートに4年制大学のワシントン大学に進学するより、2年制のカレッジで一般教養を取得し、それから4年制の大学に編入する道を選んだのである。学費もその方が安かったので、仕送りをしてもらっている両親への負担軽減の目的もあった。

ジュニアカレッジで知り合った友人に香港からの留学生ジェシー・リーがいる。出会いは忘れてしまったが、留学生が必須としている英語のクラスだったと思う。

ジェシーは少しどもる癖があったが、英語は特徴のある香港訛りだった。中国人のジェシーと最初から馬が合ったのは、彼が非常にオープンマインドだったことと、苦学しながらの勉強家、努力家であったからだ。

互いにリスペクトする関係であった。私はカレッジの近所にある高級住宅で住み込みとして働くジェシーを学校帰りによく送って帰った。立派な家に住み込みで働くバイトは留学生にとって数少ない仕事といえた。

そのジェシーと卒業以来、出会うことは無かった。私はその後、ウェスタン・ワシントン大学へ進学し、卒業と同時に日本へ帰国してしまったが、ジェシーは見事にシアトルに残り、政府関係の仕事についた。

別々の人生を歩み、二度と会うことはなかったが、互いにお互いを忘れることはなかった。ジェシーは結婚したが、子供はいなかった。それで、奥さんと旅行をするのが趣味になった。

30年の時を経て、香港へ帰るジェシーはシアトルで私の知る日本人と再会する機会を得た。それが、きっかけでネットで連絡できるようになった。

今から、4年前、タイへ移住する直前、日本に立ち寄ったジェシーと再会した。

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posted by ラッキー at 09:24| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月30日

運転免許取りたて、最初の事故

    10 mar 30.JPG 
    最初に買った65年型マスタング・コンバーティブル

17歳で渡米し、シアトル郊外にあるボッソル市立高校へ編入した私は授業で運転免許のクラスを取った。ミスター・リストウは片言の日本語を話し、優しい先生だった。

しかし、相性の悪いワード家は私に味方しなかった。ワード・ママは試しに私に家の大事なステーションワゴンを運転させてくれたが、恐怖心から叫び声を上げ、そのためママに気遣い運転に集中できなかった。

私の運転に自信を持てないママは二度とステーションワゴンを運転させなかった。(つまり練習もさせてもらえなかったということだ。)

ワード家には農場で使う古いピックアップトラックがあった。ワード親爺と息子のトムがよく運転していた。

トムがそのトラックを使い、運転の練習をさせてくれた。まだ、クラッチに慣れておらず、ハンドリング操作も不慣れなまま、トラックの幅ぎりぎりの二本の柱を通り抜けることになった。

手も足も操作に不慣れなまま、その柱に勢いよく突っ込んだため、右のバックミラーをへし折ってしまった。ワード家ではそれ以来練習をさせてもらえなかった。

運転免許取得はルイジノのいるレヴォグル家に越すまで待たねばならなかった。レヴォグル家に越すと同時に免許の試験に連れて行ってくれた。筆記試験と実技試験とあったが、どちらも失敗しても三度目まで試験を受けることができた。

因みに私は筆記も実技もその3回ある3度目で受かった。筆記と言ってもパソコン画面に出る選択質問四択から正解を選ぶもので、通常15歳半になるアメリカ人の子供は本を読んでくれば受かる程度の問題だった。つまり、私にとっては英語の試験のようなものであった。

実技は80点が合格基準だったが、一度目は76点。二度目は惜しくも79点。特に残念だったのは二度目で、最後の直進ストップで車を止めたら、駐車枠に収まらず、二メートルもショートして止めてしまったことだ。これがマイナス1ポイントとなり、79点泊まりで不合格だったのだ。三度目に無事クリアして晴れてアメリカで運転免許の取得となったのである。

さて、ショーラインカレッジに通うため、レヴォグル家を出た私は家に近いリンウッドという街を通過中だった。信号待ちの時に、タバコを吸おうと見るとダッシュボードのタバコは反対側に押しやられていた。

買ったばかりの愛車ムスタングは電動のオープンカーで、座席を一番前にしても、足の短い私にはブレーキを踏むのがやっと届くくらいだった。

短い手を伸ばし、タバコを取ろうとすると、その短い足がブレーキから緩んでしまったのだ。

「ドン」という音がして、ムスタングの車体が揺れた。私は思わず、後ろを振り向き「ファック・ユー」と叫んだ。だが、後ろには車は無かった。???

頭が混乱していた。だが、前を振り向き直すと、前の車からヤンキーの爺さんが降りてきた。後ろから追突されたのではなかった。自分が前の車にぶつかったのが、その時初めてわかった。

相手の車が頑丈にできたアメ車だったので、事なきを得たが、これが私と車の事故の最初になった。

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2010年01月07日

金髪の元彼女はアイリッシュ

       10 jan 07.jpg
       刺激的なシーンを見せられてドキドキ

アメリカ留学時代の元彼女、アイリーンと連絡がつくようになった。34年も前の彼女だが、二人の絆は今でも保ったままである。

ボッソル高校を卒業した私はショーラインCCを経てワシントン大学に入学するも赤点が続き、次学期がラストチャンスと大学から警告を受けた。自分の判断で追い出される前に自ら出ようとワシントン州北部ベーリングハムにあるウェスタン・ワシントン大学に転校することに決めたのだ。

ウェスタン・ワシントンは先生になる希望者が入る教育部で有名な学校であったし、総合大学ではあるが、ワシントン大ほど大きくなく私に向いていた。

初日に出会ったのがその後彼女となるアイリーンの大の仲良しのルームメイト、ランディであった。ランディと言っても女の子である。結核の検査に行った保健室の前で出会った。すぐに仲良くなった私をアイリーンのいる寮へ連れて行って紹介してくれた。

皆で「マリちゃん」をお散歩に連れていった。偶然にも彼女たちの寮はフェアへヴンの寮で同じ区画だったが、彼女たちは半月もせずに寮を出て、一軒家を借りて出て行ってしまった。

パーティーが好きなアイリーンとランディは週末になると開いていたが、平日でも多くの友達が集まっていた。

半年もした頃、突然アイリーンから電話が掛かってきた。確か土曜日の午後だったと思う。「ラッキー、会いに来てくれない?」そう切り出され、咄嗟に「いいよ!」と答え愛車ボロくそワーゲンに乗り寮を出た。

アイリーンの家に着くまでに私の頭は真っ白になり心臓は高鳴り出していた。何故かアイリーンの声が意味深に聞こえたからだ。

彼女の家に着きベルを鳴らすとドアが開いた。目の前に立っているアイリーンはグリーンの瞳を輝かせながら、少し真面目な顔つきで口を開いた。「Ask me a kiss」と聞こえた。???質問文でないことに気付くとその意味を理解した私は、彼女のリップに自分のを重ねた。挨拶のキスではない。心臓の鼓動は本当に破裂するくらいに高鳴っていた。部屋の中に入ると私はルームメイトのランディが何時現れるのか気になった。実はこの時すでにランディはアルバイトで留守だったのだが、それを知らないでいた。

「ラッキー、マッサージしてくれる?」と頼まれ、私は得意のマッサージをアイリーンに施した。しばらくするとアイリーンが言った。「じゃ、今度は私が代わるわ。」

うつぶせになりアイリーンのマッサージを受けていたが、「Turn over」という声に仰向けになるとそこにはミニスカートのまま、私の頭の上に跨ったアイリーンの姿があった。どっきりしたが、興奮度に心臓が破裂しそうになった。

ランディがバイトでいないと知ったせいか、今度は逆に何時帰ってくるのか気になりだし、そてもアイリーンと楽しめそうになく驚くばかりでオロオロしてしまった。

「アイリーン、また来るよ!」と慌てて言い残し、彼女の部屋から逃げ帰った。ナイーブな頃の話しである。

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posted by ラッキー at 10:11| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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