2015年11月05日

毎朝、飼牛に干し草を与える日課


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  ロイヤル・ガーデンで見た干し草で思い出が蘇ってきた

若干17歳で単独渡米し、シアトル郊外にあるボッセル高校に転校したのが1973年の春であった。高校3年に進学はしたが、四月の半分は学校に行っていない。自分の足で東京までビザの取得のため、通っていたためである。

当時はネットなど無い40年も前のこと。自分で聞いたりして、どこでどうすれば良いのか調べたのだ。断っておくが、その頃は留学の手続きなどしたことのある旅行代理店など地方都市では無かったのである。

忘れもしない、帝国ホテル内にあった藤田観光の事務所に出向き、いろいろ聞いたら、アメリカ大使館に行って自分で申請できると教えてもらった。勿論、それなりの料金を払えば、代理店として藤田観光でもやってくれるのは、当然のように言われた。

だが、私は自分で取得することを選んだ。理由は私に続く後続組が現れた場合、教えてあげることができると思ったからだ。

そんなこんなで、単独の渡米を決めたのが、その年翌月の5月5日、こどもの日。未だにずっと私の個人的「記念日」である。

真直ぐ呼ばれたワード家へは行かずに、ロスアンゼルスのコリーンの家を訪ね、その後サンフランの安蔵さんを訪ね、サンフランから飛んでバンクーバーのキャロリンに会いに行った。バンクーバーからグレイハウンドのバスで国境を越えてシアトルに入るとダウンタウンのグレイハウンド乗り場にワード家が出迎えに来ていた。

今、一瞬であるが、その時の様子が脳裏をかすめた。もう、42年も前の記憶である。私の体の一部に記憶が残っていたのだろう。実際、ワード家は「恩人」ではあるが、相性は最悪のものだった。

パタヤで見た干し草ですぐに当時を思い出すことができるのは、「干し草」がすでに「キーワード」として頭に打ち込まれているからだ。

何しろ地方都市の中心部、老舗の割烹料亭の次男として生まれた私は農家の暮らしなど見当もつかない。勿論、その家に一年前ホースステイしたことはあったが、「一週間」のゲストと「住む」ことになる留学とでは全然話は違った。

そのワード家では、でかい敷地に馬一頭と飼牛10数頭いたのだが、学校へ登校する前に飼牛に与える干し草の登板は息子のトムと私の交代制であった。

ずるいトムに嫌がらせをされ、何度も彼の当番の代わりをやらされた。ユニフォームが無い自由服の学校なので、通学には普通のシャツしか持っていっていなかった私は、朝起きてシャツとズボンに履き替えてから、農作業となる。

作業が終わると、干し草がきれいなシャツにこびりついていた。「これはえらい所に越してしまったなあ」というのが、正直、素直な気持ちだった。

















posted by ラッキー at 00:50| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | シアトル留学時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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