祖父母も駅まで、親友たちは羽田空港で見送ってくれた
1973年5月5日、子供の日、県立高校3年になったばかりの私は全部、手続きを自分でやり、誘いがあったワシントン州カークランドのワード家にホームステイしながら、ボッセル高校に通うことになった。
出発の前日は学友共が泊まりに来て、皆で祝宴を挙げてくれた。その流れで、地元の駅から都内へ入り、モノレールで羽田国際空港まで一緒に行き見送ってくれた。
私はつくづく友に恵まれている。本当に心から神に感謝している。当時はまだ留学できる学生などほとんど居なくて、私の高校から留学したのは恐らく私が初めてだと思う。
普通なら焼きもちや妬みから、嫌味を言いそうな友人も一人くらいは居るだろうが、私の親友・友人たちにそういう小さな心を持った者は一人も居なかった。本当に気持ち良く送り出してくれた。
高校3年になったばかりの4月の半分は学校に行けなかった。(本当は行かなかった)何故なら、留学ビザの申請(パスポートは前年すでにYMCAの語学研修で取得済み)は藤田観光で聞いて自分でやったからである。
当然、藤田観光に頼めばやってもらえたが、それだと手数料を取られる。両親になるべく負担を掛けたくなかったのと、親友・友人たちが後続組となって留学する場合に手助けとなれるようにとの思いから、自分で大使館へ赴き自力で取得したのである。
アメリカの学校は9月が新学期なのは知っていた。つまり、5月に渡米しても高校2年に入るようになるのだ。日本ではすでに3年であるから、半年ほど遅れることになる。
そこで、高校に編入する前に私は真っ直ぐ目的地であるシアトルに飛ばず、ロスに行くことにした。ロスにはディズニーランドでバイトをしていたコリーンと友達になっていたからだ。
帰国してからコリーンと文通していた私は留学の折り、ロスに立ち寄るので数日間、泊めていただけないか?と聞いてみた。すると、コリーンから返ってきた返事はOKだった。
当時、まだ子供が一人で飛行機に乗って旅行しているような時代ではない。1973年である。ロスの空港に着いたら電話するように言われていたので、到着荷物のカーセルで荷物が出てくるのを待つ間に公衆電話からコリーンに電話することにした。
近くにあった公衆電話を受話機を取り、番号を廻しながらカーセルの方を見るとお母さんと見られる女性と若い娘二人が私の方を見て会話していた。
「ふ、待てよ」私は呼び出し音に返答が無い電話を置き、その女性たちの方へ向かって歩いて行った。「コ、コリーン?」と言うと先方も笑顔で頷いてハグしてくれた。
大人の女性はコリーンの母で若い方の子はコリーンの妹だった。私がコリーンと出会ったのは前述した通りディズニーランドだったが、コリーンの家はすぐ近くのオレンジカウンティーにあった。
お祖母さんが訪ねて来るので、私はソファに寝る約束だったが、それがキャンセルとなり、彼女が寝る予定だった部屋を用意してくれたベッドで眠ることができた。
米国留学、渡米第一日のことであった。(続く)
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