料亭の裏手には大きな家庭風呂があり、四五人が同時に湯船に浸かることができた。
通常、料理を作り終えた男子従業員が先に風呂に入り、兄弟は男風呂で一緒に風呂に入ったが、休日、日曜日は女性従業員が先だった。
子供ながらにも、休日、日曜日に女性と一緒にされるのが嫌で、恥ずかしかった記憶がある。今、考えたら「そんな勿体ない」と考えることである。(笑)
トイレは男子の小便用と大便用に分かれているだけで、今の様に男性、女性の区別は無かった。つまり、女性は同じ便所をいつも利用するが、男子は小便と大便で入るトイレが違ったのである。
そんな訳で、子供の頃から「排泄」と「性」は普通の子供や現代の子供たちよりも敏感に育ったと言えよう。
生まれたのが昭和30年であるから、戦後10年、まだまだ日本が復活に頑張っている時代である。
そして、高度成長期へと移り、私も留学させてもらえた。もっとも、米国での暮らしはある意味、日本で大学へ通うよりは安かったともいえるが、ここでは触れまい。
前述した通り、共働きの両親とは、幼少時代は家族揃っての暮らしという訳にはいかなかった。特に母親とは親密になる時間はほとんど無かったと言っても良いだろう。
ただ、有難かったのは父親が子供好きで、私は特に指定の「子守り」が居なかったので、親父の後をよくくっ付いて歩いたものだ。30年代の映画もよく父親に連れていってもらった。まだ無料で入れる年齢である。
片岡千恵蔵や大友柳太郎、中村錦の助など東映の大スターの映画を見たことは今でも覚えている。千恵蔵の「多羅尾伴内」や柳太郎の「丹下左膳」なんか良かったなあ。そうそう、大川橋蔵もいたっけ。
幼少の頃は父親との会話の方が多かったが、留学後は母親とも近くなった。両親、どちらも幼少の時、時間をとってもらえなかった分、そして米国滞在が長く日本に居なかった分まで、その後の関係は「時間」を大事にするようになった。
この頃、つくづく思うが「時間とお金」と両方とも、大事にしたいものである。
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