2014年10月14日

弁当箱の子守唄

今日は父の誕生日であるが5年前に他界した。

私は戦後10年の生まれで、実家は戦災に遭った市内に割烹料亭をいち早く再開させた。地元の県庁前という利点もあり、手腕のある祖母と母により商売は繁盛していた。

戦後、まだまだ復興の過程であり、多くの先輩日本人がそうであったように昔の日本人はとてもよく働いたと思う。

焼け野原からの復興ということを考えると、その必死さが理解できるだろう。父母ともに料亭の仕事に携わっており、私には専属の子守りはいなかった。

いつも、一番奥の料理場で包丁を取る父の前掛けを手にして、じっとしていた記憶がある。

邪魔になったり、飽きてくると、四畳半と繋がっている8畳の部屋で弟と遊ぶのだが、この弟のちょっかいに翻弄され、制しすると泣きだし、それが原因で母からは毎晩のように押入れに閉じ込められた。親から見ると単なる兄弟喧嘩と映ったようだ。

当時は分からなかったが、弟は私にちょっかいを出すことによって、私の怒りを買い、私が手を出すと泣きだし、泣くと母がやってくる、という条件反射を実行していたのだ。つまり目的は母親の愛情だったのだ。

私は子供心にも何故、一緒に遊んでいる弟がちょっかいを出すのか必死で考えたが分からないでいた。自分の落ち度を考えていたからである。

全容を解明できたのはアメリカ留学で心理学を学んだお陰である。弟のそういう心理的事情を知らない母は「小さくて弱い弟が兄に手を出すことはない」という理論で全てを片付けていた。

弟が母の愛情(関心)を引くために起こしている行動など、毎日の忙しさに構っておられず、私がどんなに抗議しても聞き入れてはもらえず、毎晩のように「悪役」をさせられ押入れで泣き叫ぶのだった。まったくの「冤罪」である。

この頃からすでに「世の中の不条理」を思い知らされたわけだ。今となっては良い教訓だったのかも知れない。まだ、年齢にして4、5歳くらいである。

忙しい母はどんなに泣き叫んでも押入れに入れた私を忘れてしまい、暗い押入れで泣き疲れて眠ってしまった私が起こされる頃は遅い時間となっていた。

四畳半のすぐ隣が洗い場となっていて、会津塗の弁当箱を洗う音が子守唄のようだった。サッコーン!



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posted by ラッキー at 00:07| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 少年時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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