2010年08月07日

人生における外国人との遭遇

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    当時の小学校校舎

もうすぐ満55歳になるが、自分にとって英会話ができることは人生の選択肢の幅を広げてくれたようである。

振り返って見ると、過去において幾つかの出来事を通して、自分の個性が発揮されてきたのだと思う。

そもそも初めて「外人」を意識したのは小学生低学年の頃だったと思う。実家が料亭を営んでおり、従業員の慰安旅行で日光へ行った時だったと思う。昭和30年代、その頃、住み込みの従業員もたくさんおり、小さな子供からすると皆「叔父ちゃん、叔母ちゃん」だった。

子守をしてもらった経験からか、その叔父ちゃんや叔母ちゃんに唆され、「ほれ、○○ちゃん、あの外人さんと話しをしてごらん」とかからかわれたのだ。お調子者の次男であった私は臆することもなく「ハロー、ハロー」とそれしか知らない言葉だけで外人に近寄っていったものである。

小学生になると敷地内に朝鮮学校があり、朝鮮人の友達もたくさんいた。朴くんや柳くん、朴さんなど野球をやったりかくれんぼをしたりと仲良く遊んだ記憶がある。生徒の中には「朝鮮人、朝鮮人」とからかう連中もいたが、私には違いが判らなかった。

午後3時過ぎ、授業が終わり、一緒に運動場で野球をしていると、その朝鮮人の友達は4時から始まる朝鮮学校のため、野球を止めねばならなかった。せっかく楽しく遊んでいたのに、いつも途中で抜けねばならない彼等に対し、可哀想だと思った。

同じ日本語を話す友達だったので、国籍や国の違いなど理解できないでいた。私がはっきり違いを理解する機会がやってきたのは、小学校を卒業する直前だった。

小学校の敷地内にあった小さな校舎から新しくできた、立派な朝鮮学校に転校することになったのだ。当時、小学校6年で学級委員を務めていた私はクラスを代表して彼等とのお別れ会に代表として出席した。

ここで仲の良かった朝鮮人の友達と涙のサヨナラをすることになった。私は子供心にも何故、別れなければならないのか理解できないでいた。

同じく小学6年の遠足で羽田空港に行ったことが、その後の人生に多大だ影響を及ぼすことになった。多くの友達は「僕は大きくなったらパイロットになりたい」だの「私はスチュワーデスになるの」とか作文を書いたが、私は空港の屋上から飛行機を見ながら「あの機内に入ってしまえば、こっちのもの。その飛行機が着けば日本とまったく違う外国へ到着できるんだなあ〜」などと空想の世界に浸っていた。

その頃から海外へ出たいという希望が芽生え初めてたのだ。そして、それは僅か四年後に実現することになる。

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    40年以上前にこんな風に英会話練習を

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posted by ラッキー at 12:51| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 少年時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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