最初に買った65年型マスタング・コンバーティブル
17歳で渡米し、シアトル郊外にあるボッソル市立高校へ編入した私は授業で運転免許のクラスを取った。ミスター・リストウは片言の日本語を話し、優しい先生だった。
しかし、相性の悪いワード家は私に味方しなかった。ワード・ママは試しに私に家の大事なステーションワゴンを運転させてくれたが、恐怖心から叫び声を上げ、そのためママに気遣い運転に集中できなかった。
私の運転に自信を持てないママは二度とステーションワゴンを運転させなかった。(つまり練習もさせてもらえなかったということだ。)
ワード家には農場で使う古いピックアップトラックがあった。ワード親爺と息子のトムがよく運転していた。
トムがそのトラックを使い、運転の練習をさせてくれた。まだ、クラッチに慣れておらず、ハンドリング操作も不慣れなまま、トラックの幅ぎりぎりの二本の柱を通り抜けることになった。
手も足も操作に不慣れなまま、その柱に勢いよく突っ込んだため、右のバックミラーをへし折ってしまった。ワード家ではそれ以来練習をさせてもらえなかった。
運転免許取得はルイジノのいるレヴォグル家に越すまで待たねばならなかった。レヴォグル家に越すと同時に免許の試験に連れて行ってくれた。筆記試験と実技試験とあったが、どちらも失敗しても三度目まで試験を受けることができた。
因みに私は筆記も実技もその3回ある3度目で受かった。筆記と言ってもパソコン画面に出る選択質問四択から正解を選ぶもので、通常15歳半になるアメリカ人の子供は本を読んでくれば受かる程度の問題だった。つまり、私にとっては英語の試験のようなものであった。
実技は80点が合格基準だったが、一度目は76点。二度目は惜しくも79点。特に残念だったのは二度目で、最後の直進ストップで車を止めたら、駐車枠に収まらず、二メートルもショートして止めてしまったことだ。これがマイナス1ポイントとなり、79点泊まりで不合格だったのだ。三度目に無事クリアして晴れてアメリカで運転免許の取得となったのである。
さて、ショーラインカレッジに通うため、レヴォグル家を出た私は家に近いリンウッドという街を通過中だった。信号待ちの時に、タバコを吸おうと見るとダッシュボードのタバコは反対側に押しやられていた。
買ったばかりの愛車ムスタングは電動のオープンカーで、座席を一番前にしても、足の短い私にはブレーキを踏むのがやっと届くくらいだった。
短い手を伸ばし、タバコを取ろうとすると、その短い足がブレーキから緩んでしまったのだ。
「ドン」という音がして、ムスタングの車体が揺れた。私は思わず、後ろを振り向き「ファック・ユー」と叫んだ。だが、後ろには車は無かった。???
頭が混乱していた。だが、前を振り向き直すと、前の車からヤンキーの爺さんが降りてきた。後ろから追突されたのではなかった。自分が前の車にぶつかったのが、その時初めてわかった。
相手の車が頑丈にできたアメ車だったので、事なきを得たが、これが私と車の事故の最初になった。
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