2009年03月02日

帰宅すると監獄が待っている毎日だった

    09 mar 02.JPG
    通っていた三の丸小学校の運動場

四人兄弟の次男として生まれた私は一つ年上の年子の兄と一歳離れた妹とその下の弟がいた。両親が商売(料亭)をしていたこともあり、兄は生まれると祖父の経営する旅館の方へ預けられた。初孫であるから、それは可愛がられた。

私の妹は料亭に裏にあった塩専売公社の老管理人夫婦が面倒みた。妹は料亭の方にいたが夜になると裏の管理人夫婦のところで寝た。私は兄と一緒に幼稚園に通い、終わると帰宅し兄と遊んでいたが、夕方になると消防所勤務(所長)を終えた祖父さんが旅館に連れ帰っていた。

料亭に残るのは私と弟だ。私と弟は仲が悪かった。いつも喧嘩が絶えなかった。実はそう思っていたことが事実でないと理解できたのは、その後成長してアメリカ留学時代にセミナーを受けたお陰である。それについては後述することになると思うが、この時にはそういう関係だった。

いったい何が起こっていたのだろう。子供であるから弟と私は結構二人で遊んでいたのだ。だが、何か些細なことがあると必ず弟が泣き出すのだ。すると、その泣き声を聞いた母が飛んできて「この忙しい時に何で弟を泣かすのか?」と叱責するのである。私はどんなに事情を説明しようとしても無駄だった。忙しい商売に追われている母には「聞く耳」はなかった。反論すると「△×■」と逆に言い訳するずるい子だと押入れに閉じ込められた。

真っ暗な押入れに閉じ込められ、怖さで(暗いのと中から出られないのではないかという恐怖)泣き喚きながら「出してくれ」と懇願しても料亭の厨房のうるさで私の声が届くことはなかった。

毎晩、毎晩、弟のチョッカイを受け、止めろと抗議すると泣き出し、その度に押入れに閉じ込められる毎日だった。

物心が付き、外で遊べるようになった小学生時代は毎日、外で友達と野球をして遊んだ。夕方、真っ暗くなるまで野球をした。授業が終わるとすぐに運動場に飛び出し場所を確保した。ところが、家が遠い友達は4時、5時となると一人、一人と抜けていく。最後は近所の子供たちだけ残るのだが、皆家に帰らなければならない。

家が監獄状態だった私はどんなに暗くなっても帰ろうとしない。最後までグランドに残っていた。それほど帰りたくない家だった。

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posted by ラッキー at 00:22| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 少年時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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