2008年10月24日

植草一秀氏、朝日放送と和解=名誉回復のために

先日、バンコクへ行った際、宿泊したホテルで貸し出しビデオがあった。邦画も揃っていたのでタイトルを見てみると以前から一度見たかった「それでも僕はやってない」という痴漢冤罪のビデオがあった。

最近の法律はとんでもないものになってきているという恐ろしい気持ちで一杯になった。以前にも書いたことがあるが、昔のテレビドラマでやっていた「事件記者」(だったと記憶している)に偶然殺人現場に居合わせて犯人に仕立て挙げられるという番組を思い出す。

無実を証明することは有罪を証明するより難しいのは明らかである。警察による不法な取調べや自白強要などいくらでも存在するであろう。そして、冤罪を戦い勝ち抜いたとしても植草氏のように傷つけられた名誉の回復はどんなに償われても取り戻せないものである。

英語で言うと「Nobody is guilty until proven guilty」この日本語訳が昔から絶対におかしいと思っている。映画にも出てくるが、「疑わしきは被告人の利益に」という意訳は見当違いもはなはだしい。はっきり言えば本来はこの場合直訳すべきである。「有罪の判決が出るまでは皆被告人は無罪である。」こう訳すべきである。

Gooで調べたことを併記しておきたい。

質問は
「刑事裁判の一審はほぼ100パーセント有罪になる」ということをある記事で読みました。
これは本当のことでしょうか?
また、「一審が有罪になるのが普通」の裁判制度であるとしたら、どこか間違っている点はないのでしょうか?
この質問に対し回答者は
むかし、大学の刑法・刑事訴訟法の先生が、「100パーセント有罪になる」刑事裁判というのは、少し問題があるとおっしゃっていました。

本来、有罪・無罪の判断をするのは裁判所の仕事のはずです。
そして、裁判所が有罪と判断するまでは、被告人は無罪と推定されるはずです。

ところが現状では、検察が起訴した段階で社会は犯人扱いしますし、裁判所も「起訴されているからには有罪なんだろう」という予断を抱いていないとは言い切れないものがあると思います。
また、警察・検察が100%の有罪を得なければならないと思うあまり、捜査の行き過ぎ(自白の強要等)を招いている面もあるかと思います。

本来の姿からいえば、検察は一応の立件ができればどん起訴し、詳細な真実を明らかにするのは裁判に委ねるのが良いという考え方も、確かにあるはずです。


ただ、裁判の現状(判決までに長い時間がかかる)からいって、今のままでは簡単に起訴されてしまうと被告人の負担が重いというのも、真実です。

司法改革により迅速な裁判が実現するまでは、上記のような理想は、見果てぬ夢なのかもしれません。


このように答えています。本来、調べようがない(現行犯は別ですが)痴漢程度の問題は刑事事件にするのはいかがなものかと思います。マナーとエチケットの問題です。痴漢の行き過ぎた行為であれば暴行とか別の用語で刑事事件として扱えばよいわけですし、大体見て見ぬふりをする人が多くなったのがそもそもの問題でしょう。誰から注意すればよいだけの話です。

それよりも植草氏のように策略で嵌められたようなケースでは本当に無実を晴らすために使われる時間とエネルギーはどんなことをしても償いきれないことを検察は十分承知すべきです。

植草氏の名誉回復のためにも少しでも多くの人にこの先生が戦っている実態を知って欲しいと願うものである。

植草一秀の『知られざる真実』

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/

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posted by ラッキー at 23:09| バンコク ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | パタヤから発信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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